2008/05/20

カフカ「断食芸人」(2)

変身・断食芸人 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 価格: ¥ 504
  • 発売日: 2004/09

★カフカ「断食芸人」(1)

カフカ「断食芸人」のなかでいくつか気になるところがあったので、考えてみました。

興行主は断食の期間を最高四十日と限っていた。

興行主が40日で断食芸を中断させるのは、「四十日以上となるとパタリと客足がとまる」からですが、わたしは、この四十日という数字になにかしらの意図を感じます。
「断食」そして「四十日」という記号から真っ先に思い浮かぶのは、イエスです。
新約聖書では、イエスは40日間にわたって荒野で断食をしました。

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
(マタイによる福音書 第4章)

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず。その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。
(ルカによる福音書 第4章)

わたしはここに、断食芸人とイエスのアナロジーがあると思います。

さらに気になるのは、断食芸人に対する、語り手の「受難者」という言葉です。
40日の断食期間が過ぎると、彼はぎっしりつめかけた観客の好奇の眼差しの中、檻から出され、興行主が大げさに脚色してセレモニーを盛り上げます。

興行主が登場、やおら断食芸人に両腕を差しのばす。音楽にかき消されて声は聞こえないが、天に向かって藁の上のこの生きもの、哀れなこの受難者を照覧あれ、とでもいうかのようだ。この点、まるきり別の意味合いであれ、彼はいかにも受難者だった。

なぜ、カフカは「受難者」という宗教的な色彩の強い言葉を使っているのでしょうか?
興行主は「受難者」という言葉を商業上の利益のために使っていますが、語り手は「別の意味合いで」受難者であると語っています。
わたしはやはり、宗教的意味ではないかと思うのです。

◇◇◇

「限りなく自分を超える」ことを目的としていた断食芸人。しかし、観客は誰もが彼の芸をインチキとみなし、興行主は「パタリと客足がとまる」といった理由から、まだ続けたいと願っている彼の意思を無視して、断食を中断させます。
純粋な精神的世界を希求する断食芸人は、つねに非精神的世界と闘っていたのではないでしょうか。
そして非精神的世界の人々は、絶対的なものを志向する断食芸人を、(無意識に)恐れていたのだと思います。
彼は「格子つきの小さな檻」の中に入れられていました。「檻」は猛獣のような、なにかおそろしい動物を閉じ込めておく記号です。

カフカが配置した「大人」と「子ども」の2種類の観客のうち、「大人」たちは、冷酷でひたすら享楽的に描かれています。
「流行っているからには見逃す手はない」という彼らの行動様式は、リースマンが言うところの他人指向型そのものです。

どんな鈍感な人にも、目のさめるようなたのしみというものだった。豹には何不足なかった。気に入りの餌はどんどん運びこまれた。自由ですら不足していないようだった。必要なものを五体が裂けるばかりに身におびた高貴な獣は、自由すらわが身にそなえて歩きまわっているかのようだった。

息絶えた断食芸人のかわりに、空になった檻に入れられた若い豹は、非精神的世界の理想すなわち「生」の欲求を、具現しているように思えます。
この動物的な生命力こそが、「どんな鈍感な人にも」共感される真実なのです。

◇◇◇

しかしこの物語が複雑なのは、カフカが単純に、精神的な欲求に敵対する「正常な生」を批判し、断食芸人の側に絶対的な正義があると主張しているわけではないところです。
断食芸人は最後に、「自分に合った食べものを見つけることができなかった」から、断食をする以外になかったのだと言って、息絶えます。
この告白は、彼の断食が積極的要請ではなく、消極的な行為にすぎなかったことを暴露しています。
実際は消極的な行為であった断食を、高き努力、よき意思、偉大な自己犠牲の行為としてすりかえ、自分自身をも欺いてきたのです。

カフカは、享楽的な「大人」の観客に対してと同じように、欺瞞的な断食芸人に対しても、疑いの眼差しを向けていたのではないでしょうか。
「生の欲求」と精神的欲求の、どちらに対しても、彼は絶対的な判断を留保しているように思えるのです。
「断食芸人」という、グロテスクなイロニーを使って...。

矛盾とパラドックスに満ちた『断食芸人』という作品は、一義的に説明することの不可能な、悲惨でかつ滑稽な物語です。その奥深さ、複雑さがこの作品のどうしようもない魅力、面白さなのだと思います。



読了日:2007年10月15日

2008/05/19

カフカ「断食芸人」(1)

変身・断食芸人 (岩波文庫)
変身・断食芸人 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 価格: ¥ 504
  • 発売日: 2004/09

『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きるものである』(マタイの福音書4-4)


フランツ・カフカの『断食芸人』(Eine Humgerkünstler,1924)を読了しました。
この作品は、「自分に合った食べものを見つけることができなかった」ひとりの男の物語です。

この何十年かの間に、断食芸人に対する関心がすっかり薄れてしまった。以前なら自分で大々的に興行を打って、けっこうな実入りにありつけたものだが、今ではそんなことはとうてい不可能である。時代がすっかり変わってしまったのだ。
(カフカ『断食芸人』池内紀訳、以下同)

かつて人気と評判を博し、もてはやされていた断食芸人が、次第に流行遅れとなり、人々から忘れ去られてしまった時代が舞台となっています。
はじめ、断食芸は「誰もが一日に一度は断食芸人を見ないではいられない」人気の見世物でした。カフカはここで、2種類の観客を描いています。

大人にとっては流行っているからには見逃す手はないといった式のおたのしみだったのに対して、子どもたちにはそうではなかった。ポカンと口をあけ、互いに手を握りあい、身じろぎ一つせずにながめていた。

流行に迎合する「大人」と、驚き怖がっている「子ども」。「大人」たちは、断食をインチキであると見なし、誰一人の彼の芸の真実を見ようとしません。
断食芸人の人気は、彼の芸がほんとうに理解され評価されたのではなく、「大人」たちの不信と誤解にもとづいた、見せかけの栄光にすぎませんでした。

じつは、彼にとって断食は、「この世でもっともたやすいこと」であり、「断食の能力に対していかなる限界」も感じていなかったのです。
さらに不幸なことに、彼は望むまま自由に断食をすることが許されず、興行主によって必ず、40日で断食を中断させられてしまいます。
それも医学的理由や人道的配慮からなされたのではなく、「四十日以上となるとパタリと客足がとまる」からという商売上の理由からにすぎず、彼の真の能力を発揮する機会は決して与えられません。

四十日を過ごしたというのに、どうして今になって止めなくてはならないのだ? もっと永く、限りなく永くつづけられるのだ。今まさに至福の時を迎えたというのに、なぜ中止しなくてはならないのか? もっと断食しつづける栄誉を、なぜ奪おうとするのか。

そのため、見物人たちが「満足して帰っていく」中で、「彼だけがひとり不満だった」のです。
彼は、「限りなく自分を超える」ことを目的に断食をしていました。

なるほど、みたところ栄光につつまれ、世間からもてはやされてきた。だが当人はたいてい気が晴れなかった。誰もがまじめにとってくれないので、ますますもって気持ちがふさいだ。

世間の頑なな偏見と誤解ゆえに、断食芸人の生活は外面的には華やかでしたが、内面的には怒りと屈辱に満ちたものだったと言えます。
「彼はいかにも正視に堪えないほどに痩せて」いましたが、それは「断食のせいで痩せたのではなく、より多く、むしろ自分に不満でそうなった」かもしれないのです。

しかし、時とともに彼の芸は見物人に飽きられ始め、「ある日、断食芸人はもはや観客に見捨てられて」いました。
長年のパートナーであった興行主と別れ、彼は大きなサーカス一座と契約を結びますが、人々はいまや「ただただ動物見たさにやってくる」のでした。
彼は、自分が「動物小屋に向かう途中の邪魔もの」にすぎないことを認識し、かつての自信と誇りも薄れてゆきました。
ところが、人気も評判も得られなくなったかわりに、彼は、思いのまま自由に断食芸に没入することができるようになったのです。

断食芸人はかつて夢想したとおりの断食をつづけていた。それはみずから予告したとおり、この上なくたやすいことだった。しかし、もはや誰も日数をかぞえていなかった。

可能な限り断食をつづけ、「限りなく自分を超える」目的を果たせたにも関わらず、やはり「彼の心は重かった」のでした...。
ついに彼は、サーカス小屋の片隅で見物人もないまま、断食芸に没頭して死んでゆきます。

「いつもいつも断食ぶりに感心してもらいたいと思いましてね」
「感心しとるともさ」
「感心などしてはいけません」
と断食芸人が言った。
「ならば感心しないことにしよう」
と監督が言った。
「しかし、どうして感心してはいけないのかな」
「断食せずにはいられなかっただけのこと。ほかに仕様がなかったもんでね」
と断食芸人が言った。
「それはまた妙ちきりんな」
監督がたずねた。
「どうしてほかに仕様がなかったのかね」
「つまり、わたしは―」
断食芸人は少しばかり顔を上げ、まるでキスをするかのように唇を突き出し、ひとことも聞き漏らされたりしないように監督の耳もとでささやいた。
「自分に合った食べものを見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」
とたんに息が絶えた。薄れゆく視力のなかに、ともあれさらに断食しつづけるという、もはや誇らかではないにせよ断固とした信念のようなものが残っていた。

死に間際の告白によって、彼が断食をするほんとうの理由が明かされます。ここから、彼がどれだけ断食をつづけ、「限りなく自分を超え」たとしても、決して「満足」できなかった理由が分かるのです。
彼の真実の願望は、断食による限りない自己超越ではなく、自分の口にあった食べものをみんなと同じようにおなか一杯食べることでした。
つまり、ほんとうに生きたかったのは現実のみんなと同じ生だったのです。

皮肉なことに、彼の死後、代わって檻に入れられたのは「一匹の精悍な豹」でした。断食芸人には見向きもしなかった観客たちは、突然吸い寄せられるように檻に近づき豹に見入ります。
「咽もとから火のような熱気とともに生きる喜びが吐き出されている」ような豹は、断食芸人とは正反対をなす、輝かしく生き生きとした生命そのものを象徴しているかに見えます。
これは、断食芸人の己の生命を枯渇させた芸に対する、カフカの痛烈なイロニーなのかもしれません。


★カフカ「断食芸人」(2)

2008/05/09

米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)
  • 発売元: KADOKAWA / 角川学芸出版
  • 発売日: 2012/6/28

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)を読了しました。

プラハのソビエト学校で少女時代を過ごした米原さんが、30年後に音信不通となった3人の親友を探し歩き、ついに再会を果たすエピソードが収められてるノン・フィクションです。
一番印象に残ったのは、ユーゴスラビア人のヤスミンカを訪ねた「白い都のヤスミンカ」です。

「これをあなたに手渡したくて、ユーゴスラビアまでやって来たの」
ヤースナは包みを開いた。そして、抱きついて来た。
「ああ...ありがとう、マリ...でも、きまり悪いなあ。あたし、絵描きになれなかったから」
ホクサイの浮世絵『赤富士』だった。仕事が順調になって収入に余裕がでたとき、真っ先に買った。いつか、ヤースナに会って渡そうと思っていた。それから一五年近くも経ってしまっている。

少女時代、北斎の赤富士を「私の神様」と言い、
「ウキヨエのマスターになる」と夢見ていたヤースナ。

「この戦争が始まって以来、もう五年間、私は、家具を一つも買っていないの。食器も、コップ一つさえ買っていない。店で素敵なのを見つけて、買おうかなと一瞬だけ思う。でも、次の瞬間は、こんなもの買っても壊されたときに失う悲しみが増えるだけだ、っていう思いが被さってきて、買いたい気持ちは雲散霧消してしまうの。それよりも、明日にも一家が皆殺しになってしまうかもしれないって」
「ヤースナ!」
「何もかも虚しくなるのよ...この五年間、絵も一枚も買っていないの。だから、マリが買ってきてくれた版画は嬉しかった」
ヤースナは先ほどの包みを開いて、絵を高く掲げた。
「もし、爆撃機が襲来したら、これだけは抱えて防空壕に逃げ込むからね」

激動の時代を生き抜いた彼女らの人生は、三人三様ですが、それぞれに痛みや苦悩を抱えていて、胸がつまります。
しかしとても、心が癒される良品でした。

作品全体の雰囲気が、リッツァが愛してやまなかった「ギリシアのすみきった青い空」のイメージに感じられました。
憧れと醜さと切なさがモザイク模様になったようなイメージです。
人間というものは、なんて複雑で、なんて素敵なんだろうと、感じました。



読了日:2008年5月9日

2008/05/08

トルストイ「戦争と平和」(1)

戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)
戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 820
  • 発売日: 2005/08

トルストイ『戦争と平和』(1864-69年)を読んでいます。
新潮文庫の工藤精一郎訳です。
全4巻のうち、やっと1巻を読了したところです。

ロシアの歴史や文化をいろいろ勉強してきたので、そろそろ楽しめるかなぁと思って、手に取りました。
大長編の看板に気圧されて、どきどきしながら読み始めたのですが、なぁーんだ、と安心。
読みなれたいつものトルストイでした。
まぁ、あたりまえですよね。急に難解になるはずないですよね。

わたしはたぶん、社交界の噂話だけで第1部を費やしちゃうようなトルストイが、大好きです。

◇◇◇

気になった箇所を引用します。

将軍も兵士も一人一人が、自分がこの人海の中の一粒の砂であることを意識しながら、自分が無にも等しい存在であることを感じていた、そしてそれと同時に、自分がこの巨大な全体の一部であることを意識して、自分の力を感じていた。
(トルストイ『戦争と平和 1』工藤精一郎訳、新潮文庫)

オーストリア軍とロシア軍の閲兵式におけるとても美しい描写です。
両皇帝が総勢8万の同盟軍します。
ぴかぴかにみがきあげられ、飾り立てられた部隊に、毛並みが光沢を放つほどつやつやに手入れされた馬。

軍隊という大きな全体の中の、「個」の複雑なメンタリティに驚きました。
単純に「個」が全体に埋没しているわけではない、というところに。


読了日:第1巻 2008年5月24日

★トルストイ「戦争と平和」(2)
★トルストイ「戦争と平和」(3)
★トルストイ「戦争と平和」(4)