2008/06/29

トルストイ「戦争と平和」(3)

戦争と平和 (3) (新潮文庫)
戦争と平和 (3) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 900
  • 発売日: 2005/12

★トルストイ「戦争と平和」(1)
★トルストイ「戦争と平和」(2)

トルストイ『戦争と平和』第3巻を読了しました。
今回は、読むのに少し時間がかかりました。
というのも、あの「ボロジノの戦い」(1812年)が、3巻の中心だからです。
1巻からうっすらそんな気がしていたのですけれど、わたしは戦争の描写が苦手なのだ、ということが今回はっきりしました。

◇◇◇

印象に残った場面をいくつか紹介します。
まずは病がようやく癒え、礼拝で祈祷するナターシャの心情吐露。

『神さま、この身を御意にまかせます』と彼女は考えた。『何も欲しません、何も望みません。お教えください、何をしたらよろしいのでしょう、自分の意思をどのように用いたらよろしいのでしょう! 神さま、あたしをささげます、あたしをお受けください!』とナターシャは心にみちてくる感動をおさえきれずに、こうつぶやくと、十字も切らずに、いまにも目に見えぬ力が自分を抱きとり、自分の身から、自分の哀惜や、願望や、非難や、希望や、過失から、解放してくれるのを待つかのように、ほっそりとした両腕を垂れたまま立っていた。
(トルストイ『戦争と平和 3』工藤精一郎訳、新潮文庫)

ナターシャという女性は不思議な(複雑な)キャラクターです。
少女から成熟した女性への移り変わりが描かれているので、とても魅力的なのですけれど、手放しで好きになれない(共感できない)気がします。
無邪気さと残酷さ(エゴイズム)が、違和感なく同居しているところ。そこが魅力であり、共感できないところかもしれません。
1巻からずっと思っていたのですけれど、ナターシャは『カラマーゾフの兄弟』のリーザと、似た匂いを感じます。

したがって、ナターシャがアンドレイ公爵との婚約を破棄し、アナトーリ・クラーギンと駆け落ちしようとしたエピソードは、とても彼女らしいと思いました。
もちろん驚いたのですけれど、予想の範囲内というか。いかにも、彼女が選びそうな行為と言いますか。
この人格設定は、ほんとうに秀逸だと思います。

◇◇◇

つづいて、ニコライ・ボルコンスキイ老公爵の死をめぐる、とてもとても感動的な場面。

「いつも考えていた! おまえのことを...考えていた」とつづいて彼は、これでわかってもらえると自身がついたらしく、いままでよりもずっとはっきりと、わかるように言った。公爵令嬢マリヤは嗚咽と涙をかくそうとして、老父の手に額を押しあてた。
老公爵は左手で彼女の髪をなでた。
「一晩じゅうおまえを呼んでいたんだよ...」と彼は言った。
「それがわかってたら...」と彼女は涙声で言った。「はいったら悪いと思いまして」
老公爵は娘の手をにぎりしめた。
「眠らなかったのか?」
「ええ、眠りませんでした」と頭を横に振って、公爵令嬢マリヤは言った。思わず父のまねをして、彼女は、父と同じように、むしろしぐさで話すようにつとめて、自分まで舌を動かすのがやっとのような思いになっていた。
「嬢や...それとも...おまえ...かな」公爵令嬢マリヤは聞き分けることができなかった、しかし、その目の表情から推して、これまで口にしたことのないような、やさしい愛撫の言葉が言われたことは、まちがっていなかった。「どうしてきてくれなかったのだね?」
『それなのにわたしは、このお父さまの死を、死を望んでいたなんて!』と公爵令嬢マリヤは思った。老公爵はしばらく黙っていた。
「ありがとうよ...娘や、やさしい...何もかも、よくしてくれたな...ゆるしてくれな...ありがとう...ゆるしてくれな...ありがとうよ!...」涙が老公爵の目から流れおちた。
(中略)
公爵令嬢マリヤはテラスに足をとめた。空は晴れわたって、陽光がまぶしく、暑かった。彼女は父に対するはげしい愛のほかには、何かを理解することも、何を考えることも、何を感じることもできなかった。彼女はこの愛をこれまで自分でも知らなかったような気がした。彼女は庭へ走り出た、そしてアンドレイ公爵が植えた若い菩提樹の並木道を池のほうへ駆けおりていった。
「それなのに...わたしは...お父さまの死を望んでいたなんて! そうだわ、早くおしまいになるように、わたしは望んでいたんだわ...心の安らぎを得ようとして...でも、わたしはどうなるのかしら? お父さまがいなくなったら、わたしの安らぎなんて何のために!」公爵令嬢マリヤは小走りに庭の中を歩きまわり、間歇的に慟哭を吹き上げてくる胸を両手でおさえつけながら、声に出してつぶやいた。
(トルストイ『戦争と平和 3』工藤精一郎訳、新潮文庫)

もぅ、何も言うことがないです。感動です。涙です。
ナターシャとの比較で言えば、公爵令嬢マリヤはすごく誠実で素朴な性格だと思います。
そのため、共感しやすいし、応援したくなります。

◇◇◇

主要登場人物のなかで、女性にこだわって書くとしたら、あと、はずせないのがエレンでしょう。
彼女も、すごいキャラクターだなぁと思います。
エレンと比較すれば、『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェニカなんかは、ずっと誠実な気がしました。
エレンはある意味で、最強なことはまちがいないと思います。
今後、彼女の思惑が外れて、社交界から干されたりすることはあるのかなぁ...?

これから4巻を読みたいと思います。いよいよ最終巻ですので、楽しみです。


読了日:第3巻 2008年6月28日

★トルストイ「戦争と平和」(4)

2008/06/07

トルストイ「戦争と平和」(2)

戦争と平和 (2) (新潮文庫)
戦争と平和 (2) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • スタジオ: 新潮社
  • 価格: ¥ 860
  • 発売日: 2005/12

★トルストイ「戦争と平和」(1)

トルストイ「戦争と平和」第2巻を読了しました。
面白すぎます。
第2巻は、主要登場人物のさまざまな人生の節目が繊細に描かれています。

最も印象的だったのは、従軍して死んだと思われいたアンドレイ公爵が、生きて帰ってきたと同時に、長男を出産して妻リーザが亡くなるエピソードです。

アンドレイ公爵戦死の知らせに、悲嘆する父ニコライ公爵と妹マリヤ。
二人は出産が間近に迫ったアンドレイ公爵の若妻リーザに、無事出産が終わるまで夫の死を隠していることにしました。
そして三月の吹雪の夜、リーザのお産が始まります。

「おや、嬢ちゃま、本通りをだれかの馬車が来るよ!」と窓枠をつかんで、そのまま閉めずに、乳母が言った。「角燈で照らしながら。きっと医者だね…」
「ああ、神さま! よかったわ!」と公爵令嬢マリヤは言った。「迎えにでなくちゃ、先生はロシア語をご存じないから」
 公爵令嬢マリヤはショールで肩をつつんで、迎えに駆け出していった。ロビーを通ってゆくとき、玄関先に一台の箱馬車がとまり、いくつかの角燈が動いているのが、窓から見えた。彼女は玄関の階段の上に出た。欄干の柱の上に脂蝋燭が立てられて、炎が風にゆられていた。召使のフィリップが、もう一本の蝋燭を手に持って、びっくりした顔をして、下のほうの階段の踊り場に立っていた。そのもっと下の、階段の曲り角のかげに、防寒長靴らしい重い足音が聞こえた。そして聞きおぼえのあるような、マリヤはそんな気がしたのだが、声が何か言った。
「それはよかった!」とその声が言った。「で、お父さまは?」
 つづいてまた声が何やら言って、デミヤンが何やら答えた、そして防寒長靴の足音がこちらからは見とおせぬ階段の曲り角へ、しだいに早さをましながら近づいてきた。
『あれはアンドレイだわ!』と公爵令嬢マリヤは思った。『いや、そんなはずはない、それではあんまり偶然すぎるもの』と彼女は考えた、そして思ったと同時に、召使が持って立っていた踊り場に、毛皮外套の襟に雪をつけたアンドレイ公爵の顔と姿があらわれた。たしかに、それは彼だった。しかし蒼白く、やつれて、すっかり面変わりしたその顔には、異様に柔和だが、しかし不安そうな表情があった。彼は階段をのぼりきると、妹を抱きしめた。
「ぼくの手紙がとどかなかったのか?」と彼はきいた、そして、返事を待たずに(もっとも、マリヤは口をきくことができなかったから、返事を聞けるはずはなかったのだが)、引返すと、彼のあとから玄関へはいってきた医者といっしょに(アンドレイ公爵は最後の駅で医者といっしょになったのだった)、急いでまた階段をのぼって、また改めて妹を抱きしめた。
「これが運命というものか!」と彼は言った。
(トルストイ『戦争と平和 2』工藤精一郎訳、新潮文庫)


アンドレイ公爵の劇的な帰還、そして同夜、妻リーザは息子の出産と引き換えに命を落とします。
この一連の流れに、すごく痺れました。
いつもは厳格な老公爵が、戦死したと思っていた愛息の無事を知り、「何も言わずに、しわだらけのかたい両手で万力のように息子の首を抱きしめ、子供のようにおいおい泣き出した」というのにも、じぃんとなりました。


読了日:第2巻 2008年6月7日

★トルストイ「戦争と平和」(3)
★トルストイ「戦争と平和」(4)