2009/10/01

トマス・ハーディ「テス」

テス 上 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1960/10/5

ハーディ(Tomas Hardy,1840-1928)の『テス』(Tess of the D’Urbervilles,1891)を読了しました。
『テス』は、美貌と豊満な肉体にめぐまれ、清純な心と強い感受性を持ったテスが、貧困ゆえにつぎつぎと苛酷な運命に弄ばれ、短い生涯を終える悲劇です。
なぜ彼女はこのような悲劇的人生を送らなければならなかったのでしょうか?
テスの生涯を通して、個人の自由意志と運命について考えてみました。

1.『テス』における「運命」とは何か?


テスがアレクのために純潔を汚された後、語り手はテスに同情し、彼女の運命の不合理さに憤ります。同時に、なぜそのような悲劇が起こったのかと問い、

あの片田舎に住むテスの村の人たちが、宿命論的にお互いのあいだで飽きもせず言っているように、「そうなるようになっていた」のだ。ここにこの事件の哀れさがあった。
(ハーディ『テス』 井上宗次・石田英二訳、第1編 第11章)

として、当然なるべくしてなった悲劇と結論づけます。
そしてこの事件を契機に、テスは悲劇の道をまるで追われるかのように突き進むのです。

しかしわたしは、この「宿命」あるいは「運命」と呼ばれるものを生み出しているのは、実際にはいわゆる「神」ではないと思います。
それは、「測り知れぬほど深い社会の裂け目」(1-11)、すなわち彼女を取り巻く社会環境です。
家庭の貧困こそが、この悲劇の根本なのです。悲劇の第一歩を踏み出す契機をつくった女中奉公に行かねばならなかったのは、家庭の貧しさゆえであり、夫に捨てられた後、フリントコム・アッシュの荒涼たる農場で苛酷な労働に従事しなければならないのも、この貧困のためです。
また、父の急死によって家を追い出された家族を救うためにアレクに身を任さなければならないのも、経済的困窮によるものなのです。


経済的困窮に加えて、テスの悲劇をつくりだした社会環境の第二の大きな要因として、男性の存在があります。
それは、アレクとエンジェルの対照的な二人の人物像として描かれています。
アレクは肉欲的で唯物主義的性格であり、エンジェルは教養もあり進歩的思想をいただいた、理想主義・精神主義的性格です。テスに向けられた二人の愛は、どちらもその悲劇を加速させるだけでした。

彼らどちらも、テスの中に"自然"を連想しています。
アレクにとってテスは「野獣」そのものであり、征服の対象であるウィルダネスでしかありませんでした。

一方、エンジェルにどうでしょうか。
彼は、テスを「自然の娘」と見ることで、彼女を理想化しました。
エンジェルは知性と教養といった表面の下に、強い因襲と硬直した道徳的偏見を保持していました。
すなわち、彼は無意識のうちに、日ごろ軽蔑していたヴィクトリア朝道徳にとらわれていたのです。
エンジェルが選んだ農業や農場での生活は、生まれ育った彼の基盤である厳格な福音主義や、近代的な都市での生活への反発として向かったユートピアにすぎませんでした。
彼はテス一家が辿る貧窮の生活も、農村社会の崩壊状態も知りません。
このようなエンジェルの牧歌的な自然観は、上記のテスへの理解の質に現れています。
エンジェルがテスに残酷な心変わりをすることは、彼自身の限界ゆえの必然であったと言えるでしょう。



2.「運命」に個人の自由意志は対抗しうるか


エンジェルの精神世界の限界性を鑑みると、反逆と自由のために農場経営に夢を燃やす彼の自由意志は、「運命」すなわち社会環境には対抗できないということを示しています。
テスの告白を聞いて、エンジェルの描いていた牧歌的世界と「清純な乙女」の夢は瓦解しました。
彼の精神世界は、両親のヴィクトリア朝的中産階級の、清教徒的な道徳から抜け切れていないのです。

エンジェルの因襲性とは対照的に、テスは近代的自我の持ち主ではないでしょうか。
彼女は性に対して、いわゆる「新しい女性」のように解放された考え方をする訳ではありません。
一方では処女性に自らこだわりながら、他方では自らの精神の潔白と品位とを守り抜くことで、自らの誇りを回復する女性だと言えます。
このアンビヴァレントな考え方に、20世紀のヒロインの原型を見ることができます。

テスは、単に置かれた社会環境に屈服し、敗北することなく、彼女の回復力、適応性、独立心ゆえに、自らの肉体を支配する男からわが身を解き放ち、尊厳と勇気とを持って厳しい現実に決然として立ち向かいました。
そして精神的な意味で、ようやく安住の地を見出し、ほんのひとときの幸福を得たテスは、自らの意思で、自らの犯した罪を償うために刑死を選ぶのです。

「そうなるのが当然ですわ」と、彼女はつぶやいた。「エンジェル、あたし、うれしいくらいなの―ええ、うれしいんですわ! このしあわせは、長つづきするはずがなかったんですもの。あまりしあわせすぎました。もう十分です。これで、もう、あなたに軽蔑されるために生きなくってすむんです!」
彼女は立ちあがると、身をゆすって塵をはらい、前に進みでた。男たちは、だれ一人として動かなかった。
「どうぞ」と、彼女は静かに言った。(第7編第58章)

これは、自らの「運命」に果敢に立ち向かった彼女の自由意志が、最後には勝利をおさめたとは言えないでしょうか。


3.おわりに


まとめとして、テスの悲劇をうみだした「運命」は社会環境であると思います。
その根本にあるのは、小農民ゆえの貧困であり、文明として表象される男性によって自然として見なされる、女性であることです。
ヴィクトリア朝時代において、自然は文明の征服、支配の対象であり、自然の表象である女性も同様でした。
ロレンスは、「女であり、生命であるテスは、共同体社会の法律の名の下に、機械的運命に滅ぼされるのだ」と表現しています。
すなわち『テス』は、ハーディによる近代文明批判であるとも言えます。

さらに、このような「運命」に敗北するか否かは、個人の自由意志にかかっています。
エンジェルは彼の知性と教養によって文明生活に反発し、農村への回帰を図りましたが、これは彼の精神世界の限界性を意味しています。
都市での生活を否定して農村を選んだ彼にとって、そこは必然的に理想化され、現実の厳しさに対して無理解のままだからです。

エンジェルという人物像は、ヴィクトリア朝中産階級出身者が自らの身分を批判し、そこから脱却を試みようとした場合の典型的な例であり、その牧歌的な観念と現実認識の甘さに対する、ハーディの強烈な批判が込められているのです。
そのようなハーディが示した新しい人間像、すなわち「運命」に対抗しうる近代的自我が、テスその人なのだと思います。



読了日:2007年2月4日