2010/12/04

赤染晶子「乙女の密告」

乙女の密告
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2010/07

噂とは乙女にとって祈りのようなものなのだ。噂が真実に裏付けられているかどうかは問題ではない。ただ、信じられているかどうかが問題なのだ。真実ことによってのみ、乙女は乙女でいられる。(赤染晶子『乙女の密告』)


読書会の課題本ということで、赤染晶子「乙女の密告」を読了しました。
第143回芥川賞受賞作です。

参加者の感想は、まとめると次のとおりです。

●「乙女達」は大衆の比喩
●「乙女達」はマジョリティを意味しており、「乙女」でないと「乙女達」からみなされたもの=マイノリティは、差別され迫害の対象となる

わたしは、非常に戯画性の強い作品だと感じました。
作者の語り口は、リズミカルでユーモアがあり、戯画的エピソードをテンポよく進めていきます。
滑稽な芝居という表層の下で、異質な「他者」と「わたし」といったテーマが、『アンネの日記』を材料に描かれています。

『乙女の密告』では、『アンネの日記』を題材にユダヤ人問題を取り扱うのではなく、「まだ十四歳」で「母親に対して反抗期」の「ユダヤ人であって一人の人間」だったアンネのアイデンティティの問題を追求しています。
この点が、『乙女の密告』の新しいところだし、読み手の評価・好悪の分かれるところだと思います。


「真実を必要としない」乙女達に対して、「真実を知りたい」と行動した主人公みか子は、乙女達から「乙女でないと烙印を押され」、「他者」として排斥されました。

異質な存在は『他者』という名前のもとで、世界から疎外されたのです。ユダヤ人であれ、ジプシーであれ、敵であれ、政治犯であれ、同性愛者であれ、他の理由であれ、迫害された人達の名前はただひとつ『他者』でした。『ヘト アハテルハイス』は時を超えてアンネに名前を取り戻しました。アンネだけではありません。『ヘト アハテルハイス』はあの名も無き人たち全てに名前があったことを後世の人たちに思い知らせました。あの人たちは『他者』ではありません。かけがえのない『わたし』だったのです。(赤染晶子『乙女の密告』、以下同)

みか子は、『アンネの日記』を通して「必要なの真実」であることに気づき、「わたしは他者になりたい」と願います。
そして、「戦争が終わったらオランダ人になること」を望んだアンネを、「アンネ・フランクはユダヤ人です」と「密告」するのです。

したがって『乙女の密告』は、みか子が「乙女達の噂ばかりの世界」に埋没するのではなく、「わたしはわたしでありたい」と望み、たとえ乙女達の世界から疎外されても、異質な「他者」である自己に忍耐することを選ぶに至る、心の成長物語として読むことができると思います。


読了日:2010年10月3日

2010/11/23

ロラン・バルト「モードの体系」

モードの体系―その言語表現による記号学的分析
モードの体系―その言語表現による記号学的分析
  • 発売元: みすず書房
  • 発売日: 1972/01

ロラン・バルト『モードの体系』を読了しました。
『モードの体系』におけるファッション雑誌分析の面白いところは、ファッションそのものではなく、ファッションについているキャプションを分析している点です。

バルトはまず、衣服を2種類に分類します。写真や絵で示されている「イメージとしての衣服」と、写真や絵の説明として載っている《シェットランドのしなやかなドレス、バラの花をさした革のベルトをウェストの上に》 と言うような、「書かれた衣服」です。

書かれた衣服はほとんどパロールに対してラングがもっているのと同じような、構造的な純粋性をもっている。記述〔ことば〕は必要で充分なかたちで、ここに描写〔イメージ〕されている《この》衣服をア・ラ・モードなものにする条件としての制度的な諸拘束を表すものとして成立している。(バルト『モードの体系』、第一章)

したがって、バルトによれば、モードの記述は「単に現実のコピーとしてのモデルを提示すること」だけではなく、「モードを《意味》として世間に広く伝えること」 なのです。
わたしは、バルトが「書かれた衣服」すなわち「ことばによる構造」を分析の対象とした一つの大きな理由は、ここにあると思います。

◇◇◇

バルトは「書かれた衣服」の体系は、「ふたつの意味体系がただひとつの陳述の中に一致成立している」 言語体系であるとみなしています。

言語学において、言語は「表現」(E)と「内容」(C)という異なる二つの面が、関係(R)によって結合されており、それらの総体がひとつの体系(ERC)を形成していると考えます。
このように構成された体系は、さらにそれ自体がより高度に拡張された体系の一要素となります。

それは、低次と高次二つの体系の入れ子構造となり、低次の体系が高次の体系のどの文節部分に位置するかによって、二通りの場合が考えられます。
第一に、第一次体系(低次)は第二次体系(高次)ERCのRC部分、すなわち表現面を構成します。この場合、第一次体系は《デノテーション〔表示的意味体系〕》に相当し、第二次体系は《コノテーション〔判事的意味体系〕》に相当しています。(図①参照)

図①
E C 2.コノテーション
E C 1.デノテーション
第二に、第一次体系ERCは第二次体系のRE部分、すなわち内容面を構成します。この場合、第一次体系は《対象言語》に相当し、第二次体系は《メタ言語》に相当しています。(図②参照)

図②
E C 2.メタ言語
E C 1.対象言語
以上により、第二次体系内の第一次体系の位置に応じて、コノテーションとメタ言語は鏡仕掛けのように対立するのです。 メタ言語とは、《演算》であり、「科学的なことばの大半はメタ言語」によって形成されています。
メタ言語の役割は、「実在を扱う一体系をそのままそっくり記号意味部として捉え、それに対して、独特な、記述的性格の記号作用部の集合を新規にあてがってやること」 です。
コノテーションは、「きわめて社会的なことばにさらに味つけ」をするものです。


このような分析方法を、バルトは実際の「書かれた衣服」に次のように用いています。

雑誌が《レーシング・コースではプリントが全盛です》と述べているとき、述べられているのはただ、レーシング・コースではプリントが全盛ですということ(体系1および2)だけではなく、またプリントとコースとの相関関係がモードを意味しているということ(体系3)だけでもない。それだけではなく、雑誌はこの相関関係の上に競争(《よりも盛んです》〔全盛です〕)というドラマティックな形式の仮面をかぶせているのだ。だからここに新しい典型的な記号が登場したわけである。その場合、記号作用部は完結した形としてのモードの陳述であり、それによって意味される記号意味部は、雑誌がみずからいだいていてしかも人々に与えようとしている世界とモードの表象なのだ。(第三章)

すなわち、実際の雑誌は少なくとも三重のコノテーションになっていると言えます。そしてさらに、雑誌の特性や流行などが第四次体系、第五次体系として無限に上位に重ねられていくのです。(図③)

図③
E C 3.コノテーション
E C 2.キャプション
E C 1.写真

記号が多重化されることは、意味=コノテーションが多重化されることです。バルトの記号学において、記号のコノテーション作用が最も重要であると言えるでしょう。

◇◇◇

バルトは『モードの体系』において、ファッションの「分法」を構築し、体系化することによって言語学的分析を可能にしました。
ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエ、コノテーション/デノテーションといった対立用語を用いて、意味が生成されるさまざまなレベルを考察しています。

彼の分析方法は、現代のわたしたちが身近に接している種々の女性ファッション雑誌を見る際にも、応用することができますよね。
例えば、雑誌『non-non 2011年1月号』(集英社、2010年10月発刊)において、白いニットとデニムのショートパンツを着た女性の写真の上に、《発見!最強モテコーデは白×デニム》 というキャプションが付けられています。
わたしたちはこのキャプションによって、《白×デニム》が、男性からの《モテ》を意識したコーディネートの中でも《最強》であると教えられ、雑誌が《発見》者すなわち流行の発信源であることを教えられます。さらに、女性のファッションは《モテ》を意識してコーディネートすべき、という規範も教えられます。


1967年にバルトが見抜いたファッション雑誌の「文法」、そして「味つけされた」言葉によって、わたしたちは未だに無意識のうちに操作され続けているのでしょうね。



読了日:2007年8月10日

2010/08/20

中村雄二郎「悪の哲学ノート」

悪の哲学ノート
悪の哲学ノート
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1994/11/25

中村雄二郎『悪の哲学ノート』(岩波書店、1994年)を読了しました。
ghcさんのおすすめにより、手に取りました。ありがとうございます。
フロム『悪について』と比較すると、『悪の哲学ノート』はエッセイに近い論じ方で、逆に読みにくかったです。
『悪の哲学ノート』は、これから<悪>の哲学を考えるための地図とでも言うべきものだと思います。
カバー範囲が非常に広い(網羅的な)だけに、リクール、レヴィナス、メアリー・ダグラス、クリステヴァなど、それぞれの思想が深く論じられていないという、物足りなさはあります。
まぁ、そこは作者の意図ではないのでしょうから、今後少しずつ自分で読みたいなぁと思いました。
第2部については、第1部で論じられた<悪>の哲学の基礎的原理があまり応用されていなかったように思えます。

第1章から第3章を読むと、<悪>の問題を哲学の立場から論じる基礎が分かり、とても面白かったので、以下に要点をまとめたいと思います。
第4章「祓われる罪/透明化する悪」では、日本における<ハレ・ケ・ケガレ>(波平恵美子、桜井徳太郎)の三文法の意味、古代日本の<罪と祓>について論じています。
第5章「『黙示録』と権力本能」では、<レーニン像倒壊>という現代史における象徴的事件をきっかけにして、D.H.ローレンスの『アポカリプス論』における人間の権力本能の根深さを論じています。
「ヨハネ黙示録」を反キリスト的な<権力>称揚の書とみなすローレンスの考え方の背景には、シオランの思想に通じるような<悪>の問題への根本的な問い直しがあります。
第2部「ドストエフスキーと悪」では、ドストエフスキーの小説『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』を<悪>の哲学の観点から論じています。

◆◆◆

第1部 なぜ悪の哲学なのか
第1章 悪の哲学は可能か-悪の哲学・序説-


●<悪>を理論的に扱うことはなぜ難しいのか?
.....野口武彦『「悪」と江戸文学』(1980年):江戸文学には<悪>を扱ったものが非常に多いが、<悪>の認識には失敗した。儒教思想の勧善懲悪が建前とされたことが原因。
.....<悪>の問題をそれにふさわしい仕方で扱っている領域は、宗教であり文学である。
例)親鸞の<悪人生機>、鶴屋南北『東海道四谷怪談』、ドストエフスキー『罪と罰』、『悪霊』
=認識論の立場や哲学では、<悪>の問題がなぜうまく扱えないのか?
例)西田幾多郎『善の研究』:理想主義(アイディアリズム)の哲学。

★<悪>=<善の欠如>としてとらえる捉え方:哲学や倫理学における、<悪>の非常に代表的な扱われ方。
.....儒教の勧善懲悪はその極端なケース。西洋の哲学や倫理学の典型的な考え方は、キリスト教の善き存在としての<神>が前提された上で、神性の欠如・否定として、<悪魔>をとらえる捉え方。この主張に反対するのは難しい。
→<悪>を<善の欠如>とする捉え方が問題なのは、いつでも<善>が優先し、<悪>はその派生としてとらえられるということ。

★ビアス『悪魔の辞典』:<悪>を<善の欠如>とする捉え方の落とし穴に陥らない、<悪>の問題への接近方法。
.....<悪人>malefactor=《人類を進歩させていく最も重要な要因》→社会のなかでのエネルギーを持った異分子として、悪人をとらえている。
.....<悪魔>devil=《我々人間の、あらゆる災いをつくり出したもの。この世のあらゆる良きものを所有するもの》→悪の持つ両義性をとらえている。《彼をつくり出したのは全能の神であるが、彼に生を授け、彼をこの世にもたらしたものは女にほかならない。》→バリ島の<魔女ランダ>のように、重要なことに触れている。


★<悪>についてのトポイ・カタログ(論点集):
(1)さかしま、捻じれ、カオス。
(2)きたなさ、穢れ、醜さ。
(3)妖怪、悪鬼、悪魔。毒物、病原菌、毒虫。
(4)暴力、権力、破壊、侵犯、残酷。不正、犯罪、差別、裏切り、嘘、憎しみ。
(5)痛み、苦しみ、病気。ガン、エイズ。
→<悪>=<存在の否定>あるいは<生命的なものの否定>:伝統的な西洋哲学の概念では、善いものは存在するものであり、存在するものは善いものである。善いものは、完結した存在を示す球体によって表象されるが、列挙した<悪>の諸項は、イメージとして整った形で存在しているものはなく、歪んだものばかりである。

●<悪>の悪たる所以が<生命的なものの否定>であるとした場合:捉え方としては伝統的・正統的な哲学や倫理学に沿っているが、内容としてはそれらによっては扱い切れなかった領域。(西洋哲学の伝統は、プラトン的なイデア説と、アリストテレス的な存在論によって基礎づけられてきた。)
→<生命的なものの否定>である<悪>は、イデア的なものおよび存在の秩序の対極的なところにあるから。


★スピノザ『エチカ』:<生命的なものの否定>としての<悪>をうまく摑まえうる論理。
.....スピノザの出発点は、われわれ人間が<自然の一部>であるということであり、自然そのものは善でも悪でもないということ。
→善も悪も活動する<自然の様態>の問題として扱い、悪を<関係の解体>の観点からとらえた。
例)身体の内的関係(=組織、機能)を破壊するのが毒物の作用であるから、毒薬は身体に加えられた悪。
自然破壊は人間が生態系を破壊することによってその秩序立った諸間係を解体させ、自己の存立の基盤を失わせるから、悪。
殺人は、われわれが自分たちと原理的に一致している同類の身体を侵犯し、われわれの生存がそれに則る基本的な関係を破壊するから悪。

●<悪>=<関係の解体>説:毒薬、自然破壊、殺人をはじめいろいろな場面に適用できるたいへん有効な理論。
.....汚職、差別、拷問のような表にあらわれにくい悪も、強制収容所、大量虐殺、細菌戦のような狂気じみた悪も、<関係の解体>をいろいろなレヴェルに適用しつつ、組み合わせることによって、説明できる。
→しかし、<悪>の問題が難しく厄介なのは、説明できたらそれで済むものではないことである。


★ポール・リクール「悪の躓き」(1988年):《悪とは、それに対して闘うべきもの。存在しているものだが、存在すべからざるもの。なぜ存在するか言えぬもの。非・当為存在》=悪とは、<一種の魅力を持った、あるべからざる、現実的な現象>である。
→どうして悪は、あるべからざるものでありながら、そこに一種の魅力があるのだろうか?
.....その点を避けるとき、<悪>の問題を扱ったことにはならない。これまで哲学や倫理学においては<悪>の問題がうまくとらえきれず、宗教や芸術においては突っ込んで扱われたのは、宗教や芸術の方が<悪>の持つ魅力あるいは魔力をうまく掬いあげているから。
例)整った芸術に魅力が乏しくなり、そのかわりにバロックやグロテスクなど奇怪なものが求められたのは、趣味が悪くなったというような問題ではなく、人間の願望に関係した問題。


★サドの言説:<悪>の魅力を正面から問題にした。
.....J.ラカン「カントとサド」(『エクリ』所収):サドの哲学のうちに、カントの理性批判と表裏をなすものを見ている。
サドの思想において特徴的なのは、他人に対する支配意志=攻撃性の自己への反転である、非人称の凶暴な主体の絶対支配である。カントの定言命令と呼ばれるものは、個人的な主体を消去した点で、また絶対的である点で、サドの<主体なき欲望の戯れ>とよく似ている。
→ラカンは、カントの道徳律とサドの幻想世界を、欲望の同一の変換過程における表裏をなすあらわれとしてとらえている。


★ジャンセニズムの<三つのリビド>説:コルネリウス・ジャンセニウス『アウグスティヌス』(1640年)に由来し、パスカルが『パンセ』のなかで引用しているもの。《およそ世にあるものは、肉の欲、眼の欲、生の驕りである。》=感覚のリビド、知のリビド、支配のリビド。
.....フロイトに先立って欲望やリビドをきわめて重視し、その根源性をよく掴んでいる。支配のリビドは、ニーチェやフロイトの弟子アドラーの考え方を先取り。知のリビドは、フーコーの考え方を先取りしている。
.....なおアウグスティヌス-ジャンセニウス-パスカルという系譜では、リビドの問題は<神なき人間の悲惨>の観点から扱われているのであり、欲望を積極的に肯定しているわけではない。
→サドも、感覚のリビドと支配のリビドを緊密に結びつけて扱う。
例)ペーター・ヴァイスの戯曲『マーラー/サド』、サド『ジュリエット物語』


★バリ島の<魔女ランダ>の神話:<善と悪>の二元論的な対立という固定した図式に囚われない。キリスト教的な神と悪魔や光と闇といった二元論的な対立を超えた知恵を含んでいる。
.....バリ島人のコスモロジーあるいは象徴的世界において、ランダは悪魔的な怪獣であるが、彼女に対立するのは、善なる神ではなく、善なる怪獣のバロン。バロンが男性であるのに対し、ランダは女性である。バロンは善なる怪獣としてランダの魔力から村人を守る働きをしているが、もともとは善なる怪獣ではなく、ランダと同族の怪物であった。したがって、善獣であるバロンのうちにも、怪物性が色濃く残っている。
.....魔女ランダは、ふつう<死の寺院>と訳されているプーラ・ダレムを棲み処としているが、プーラ・ダレムというのも本来の意味は、<深層の寺院>=死と再生のための寺院を指すもの。ランダとバロンの戦いにおいて最終的に勝利を収めるのはバロンの方であるが、愛敬と魅力があり人々の間で人気があるのはランダの方。
→ランダやプーラ・ダレムをはじめとして、バリ島人のコスモロジーや象徴的世界では、死や悪魔に対しても単なる排除されるべきマイナス符号にとどまらないで、たえずマイナス符号とプラス符号が交流し合いながら、新しい生命を生み出していく。


◆◆◆


第2章 悪の魅力と存在の過剰

★悪=<存在の過剰>説:E.M.シオラン『悪しき造物主』(1969年)
.....シオランによれば、善を行うことは人間にとって自己の自然に反することであるだけでなく、造物主を辱めること。→善とは存在ではなく、むしろ非存在であるとして、ギリシア、キリスト教以来の伝統的な考え方に真っ向から反対している。
=神(善なる神)と造物主(デミウルゴス)とは同一のものではなく、相対立する存在。善なる神による<天地創造>の否定。
→<悪しき造物主>という考え方は、正統派キリスト教の観点からすれば、グノーシス的な異端とされる。


●サルトル『聖ジュネ-喜劇役者にして殉教者』(1952年):芸術的な創造あるいは美は、存在ではなく仮象に、善ではなく悪に結びつく。
.....サルトルの<ジュネ論>:実在界と想像界をはっきり区別した上で、存在の世界を神に属するものとし、芸術的な創造を、仮象や想像力にかかわるものであるとした。
→必然的に、芸術的な創造は涜神的な働きであり、神への挑戦の意味を持つ。
=プラトンやアリストテレス以来の美のイデア性やミメーシス(存在の模倣)という考え方に則っている。
.....しかし、シオランの場合は、創造は想像力に基づくといっても、それは実在界の問題として扱われる。

●グノーシス主義的、マニ教的、マルキオン的、シオラン的な方法=<善なる神>と<創造主>を結びつけた<善の存在論>による、硬直と衰弱から人間と世界をまもるために企てられた、矛盾を顕在化させ、拡大させる方法。
.....永い間異端として葬られてきたグノーシス主義、マニ教、マルキオンの教えを掘り起こしたシオランの意義→硬直した<善の存在論>の呪縛から解放されること。


●グノーシス主義の心理学を扱ったユングの『アイオーン』(1951年):ユングはグノーシス主義が無意識世界と対決し、その内容や心像を逸早く取り扱っているものとみなす。キリスト教が覆い隠してきた心の深層を研究してきたユングは、<善とは悪の欠如である>とするキリスト教倫理の基本的命題を認めない。
.....ユングが早くからタブーであったグノーシス主義に着眼し、エジプトのオシリス神話をその背景に持つ、善悪の二元論の原初性、本源性を明らかにしたのは、驚くべき発見。
=キリスト教にとって異端というより異教であるグノーシス主義が、バリ島のランダ神話にみられるようなヒンドゥ文化の善と悪についての大らかな観念に、意外と近いことが分かる。
→シオランの高度に逆説的な言説が、われわれ現代人の深層のリアリティにどんなによく触れているかを、ユングの研究は示している。


★<存在の過剰>説と<関係の解体>説の接合:<存在の過剰>=フィード・バックとフィード・フォワードを含んだ存在の充実であり、実現として考えると、<存在の過剰>説はスピノザの<関係の解体>説とうまく接合し、連動する。
.....<関係の解体>説=《<善>とは、自然の一部としてのわれわれの活動力を増大するとともに、われわれのうちに秩序を形づくることであり、また反対に<悪>とは、自然の一部としてのわれわれの活動力を減少させるとともに、われわれのうちの秩序立った関係を解体し破壊させるものである。》
→この考え方には二つの側面が含まれる。①活動力の増大・減少をそれぞれ善と悪の基準とするものであり、②秩序の形成と関係の解体をそれぞれ善と悪の基準とするものである。
.....<存在の過剰>説の考察を経ることで、①と②が結びついてより積極的な意味を持ちうるようになった。→①のみでは<善の存在論>の拘束から自由に成り得ないため。


◆◆◆


第3章 きれいはきたない-生の<イリヤ>と穢れ-

●道徳的悪と被る悪:ポール・リクールによれば、いわゆる悪が罪=道徳的悪であるのに対して、苦しみとは<被る悪>malsubiである。
.....道徳的悪と被る悪は悪魔的な力ともいうべきものの能動と受動という表裏の関係にあり、与苦と受苦は根源的につながっている。=そのつながりを説明するものとして、神話の働きがある。
→<神話>の働きに頼らず、しかも報いの考え方を超えるには、どうしたらいいのか?


★悪=説明不可能な<生の事実>=生の<イリヤ>:リクールは、道徳的悪だけでなく、身体性をつよく帯びた被る悪としての苦しみを<生の事実>、レヴィナスの用語で言えば生の<イリヤ>としてとらえている。
.....レヴィナス『時間と他者』:生の<イリヤ>( brut)=<実在するものなく実在すること>。→したがってリクールは、《悪は存在する。が、なぜ存在するのかはわからない》と言うことになる。

●レヴィナスの説く<イリヤ>:イリヤの在り様のなんたるかを、シェイクスピア劇を例に論じている。
.....『ロメオとジュリエット』:実在に一つの意味を見出させる自殺の可能性という主題。
.....『ハムレット』:ハムレットは自殺をもってしてももはや不条理を支配しえないことを理解していた。レヴィナスは《われわれが問いなおしたいと思うのは、悪を欠如だとするこの観念である。存在はみずからの限界と無以外にも悪性を含んではいないだろうか。存在の積極性そのもののうちにも、なにかしら根本的な禍悪があるのではないだろうか。》と述べている。=悪を<存在の欠如>だとする在来の考え方を逆転。
.....『マクベス』:《きれいはきたない、きたないはきれい。さあ、飛んでいこう、霧のなか、よごれた空をかいくぐって》という三人の魔女のことばは、存在が無そのもののなかに入りこむという、境界線上の自由な移動を典型的に表現している。また、王ダンカンを殺した彼の血ぬられた手は、《大海の水を傾けても、きれいには流せない》よごれやケガレとなって、マクベスを苦しめる。
→ケガレや不浄という事象は、<生の事実>(リクール)や、生の<イリヤ>(レヴィナス)の上に成り立っている。


★メアリー・ダグラス『汚穢と禁忌』(1966年):よごれあるいはケガレを<無秩序>=<秩序をそこなうもの>とする捉え方。
例)旧約聖書の「レビ記」に見られる清浄な動物と不浄な動物の区別:この区別がなにによるかは、ヘブライ人の体系的秩序と分類法に照らし合わせるとき、解決される。
=<体系秩序に不適切な要素>という場合、適切かどうかはその体系しだいで変わる。
→ケガレ・不浄・よごれの問題を<秩序と侵犯>の観点からとらえている。


★クリステヴァの<アブジェクション>abjection理論:アブジェクトなもの(おぞましいもの)の棄却行為をめぐる理論。
.....排泄物や死体や経血に代表されるケガレは、清浄=固有な身体のもっとも原初的な境界領域の、言語を超えた痕跡。<ケガレとその浄め>を扱ったものとして、ギリシア悲劇の『オイディプス王』を論じる。
.....『オイディプス王』:テーバイの町は、不妊、疾病、死にあふれていた。一方オイディプスは、父を殺害し、母と近親相姦を犯すことによって生殖の連鎖を乱し、中断するケガレとなった。このようにオイディプス王は不浄な都市に入り込んで、みずからケガレを負ったものとなった。それは、国全体のケガレを祓い、浄化するためである。オイディプスが浄化者となりえたのは、その身がケガレているという事実によってである。
=オイディプスのおぞましさは、このような役割の両義性に由来している。
→オイディプスはおぞましい存在にしていけにえ、追放されることでテーバイの町をケガレから救出できる贖罪山羊となった。
→クリステヴァの<アブジェクション>理論は、<カタルシス>の持つ意味をなまなましく、深くかつダイナミックにとらえたもの。


◆◆◆


本文中に参照されていた著作で、面白そうな本をメモします。
(入手可能かどうかは、まだ分かりません。)

ポール・ルクール『悪の神話』、『悪のシンボリズム』
サルトル『聖ジュネ-喜劇役者にして殉教者』
シオラン『悪しき造物主』
湯浅泰雄『ユングとキリスト教』
レヴィナス『時間と他者』
ローレンス『アポカリプス論』
メアリー・ダグラス『汚穢と禁忌』
クリステヴァ『恐怖の権力』
ヴォルインスキー『偉大なる憤怒の書』



読了日:2008年8月20日