2011/08/16

「サラエボ、希望の街角」(ヤスミラ・ジュバニッチ監督)

サラエボ、希望の街角 [DVD]
サラエボ、希望の街角 [DVD]
  • 発売元: ビデオメーカー
  • 発売日: 2011/09/02

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「サラエボ、希望の街角」(2010年、原題 Na Putu)を観ました。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが舞台。
痛ましい内戦の傷跡を、若いカップルの心のすれ違いを通して描いています。 

主人公のルナは、子供の頃に故郷の町をセルビア軍に占領され、両親を殺害され、家を追い出された避難民。
戦争から15年経った今でも、ルナの年老いた祖母は、自分の娘を殺したセルビア人を憎み続けています。
ルナが、かつて住んでいた故郷の家を訪ねる場面が、すごく印象的でした。
現在、そこに住んでいる少女に「どうして出て行ったの」と聞かれ、ルナは何も言わず、ただ少女の頭をなでるのです。
その少女は、ルナにとって両親を殺した「敵」セルビア人の娘。
わたしは、ルナが少女に戦争があったことを教えるのだろうと思いました。でも、ルナは何も言わなかった。
憎しみではなく、寛容と愛。
戦争を知らない世代が生まれていて、その子供たちにあえて戦争の記憶を伝えないことは、憎しみの連鎖を断ち切るために必要なことなのかもしれない、と思わせられました。

◇◇◇

ルナの恋人アマルは、アルコール依存症のため停職処分となります。
アマルも元兵士で、内戦で弟を殺されていました。彼のアルコール依存は、戦争後遺症でしょう。
禁酒セラピーにも馴染めず、失意の日々を過ごしていた時に、イスラム原理主義者となったかつての戦友と出会います。
アマルは、イスラム原理主義者たちのキャンプに参加し、厳格だけれど平和で友愛に満ちた生活を通して、精神的な癒しと支えを得ます。
イスラム原理主義の教えを通して、アマルは「紛争で虐殺され、故郷を追われたのは、不信心だったから」という明確な“答え”を得たのです。

ルナの祖母の家で、断食明けの犠牲祭が祝われた時、アマルは集まった親族たちに「みんな不信心でいいのか。また虐殺されるぞ」と説教します。
ルナもその親族たちも、もともとイスラム教徒ですが、お酒も飲むし、タバコも吸うし、肌を露出したドレスも着るし、歌い踊りにぎわう。
イスラム原理主義者ではない、ごく平凡なボシュニャク人たちは、ルナやその親族たちのようなのでしょう。
犠牲祭のような宗教行事が、西欧のクリスマスのように、家族が集まる伝統的行事として根付いていて、アッラーへの素朴な信仰を持っている。
急速に原理主義に傾倒したアマルには、それが堕落と罪悪にしか感じられないのでしょう。

愛する恋人が次第に頑なになり、別人になっていく様子に、ルナは困惑し、理解しようと努力します。
アマルの子供を身ごもっていたルナは、アマルに別れを告げるところで、映画は終わります。
子供を産むか産まないか、悩んでいたルナ。
監督インタビューによれば、観客に解釈をゆだねたラストシーンに、大きく二通りの反応があったそうです。
西欧ではルナは子供を中絶し二度とアマルには会わないだろうと、東欧では彼女は子供を生んで一人で育てるだろうと。

また、ボスニアの人々の反応もさまざまで、あまり宗教的でない人たちはルナに感情移入し、厳格なイスラム教徒は「アマルの正しさについていけないルナの物語」と理解したそうです。


『サラエボ、希望の街角』の原題は「Na Putu」。ボスニア語で、何かに向かう道の途中という意味。英題は、原題を直訳した「On the Path」となっています。
ルナや、ルナの親友たちは「戦争で傷ついたのは彼だけじゃない」と、いつまでも立ち直れないアマルの弱さを理解しようとしていません。
日々を懸命に生きる彼女たちの言葉は、正しいけれど、実はとても厳しい要求です。
きっと誰もが戦争で傷つき、深い悲しみを抱えているけれど、その傷跡を修復し、再生する道のりは一人一人がそれぞれ歩むもの。
アマルにとって、信仰だけが自分の弱さや痛みを、無条件に全面的に受け入れてくれたのでしょうね。



鑑賞日:2011年8月15日、映画館。

2011/07/07

「しみじみと歩いてる」(島田暁監督)


島田暁監督「しみじみと歩いてる」(2010年、77分)を観ました。
「しみじみと歩いてる」は、島田監督が、関西レインボーパレードを通して出会ったセクシュアル・マイノリティたちを、2006年から4年間追ったドキュメンタリーです。

レズビアン、ゲイ、MtFトランスジェンダー、FtMトランスジェンダーそれぞれに取材し、パートナーとの恋愛、仕事場や人間関係における葛藤、家族へのカミングアウトといった、日常の苦しみ・喜びが記録されています。

関西レインボーパレードで、華やかに仮装して、力強く行進する様子は、とても新鮮でした。
パレードの終点で、参加者全員が空に風船を飛ばす場面には、感動します。
パレードという<ハレ>(非日常)の顔と、日常生活のコントラストによって、セクシュアル・マイノリティの素顔がより立体的に描かれています。


MtFトランスジェンダーである黒田綾さんに密着したパートは、観ていてすごく辛かったです。
男性として生きてきて、結婚もしていたけれど、破たん。
「死ぬか生きるかまで悩んだ」上で、女性として生きることを選択した綾さん。
現在は、ホルモン療法を受けているため、乳房があります。

綾さんが、トランスしてから初めて兄に会い、カムアウトした直後の記録は、衝撃的で、泣きそうになりました。
綾さんの「死ぬか生きるかまで悩んだ」という言葉に対して、兄は「その”死ぬか生きるか”の時に戻れ」と言います。
兄にとって、綾さんの女装は「遊び」としか理解できないのでしょう。
兄との面談後、綾さんが「診断書を見せれば、楽だったかも」とつぶやいた言葉に、ハッとさせられました。
ホルモン療法を受けているのだから、診断書を頼めば、もちろん出してくれます。
診断書を見せて、女装は趣味・遊びではなく、病気・障害なんです、と説明した方が、兄は理解してくれたかもしれない、という意味でしょう。
でも、綾さんは診断書を見せて、GIDだから、と説明することが嫌だった。
わたしは今まで、トランスジェンダーの中で、医学的な診断を受けた場合がGIDと呼ばれると理解していました。
綾さんのドキュメンタリーを観て、GIDと診断されることを拒む・嫌がるトランスジェンダーの気持ちが、少し分かった気がします。
自分の状態を、病気・障害として見るのではなく、対等な一人の人間とし見てほしい。
憐れまれたくない。
そんな気持ちがあったのでは、と思います。


ドキュメンタリー映画では、<見る側>と<見られる側>という非対称的な関係に、日常を覗き見する後ろめたさや、息苦しさを感じることが多いです。
しかし「しみじみと歩いてる」は、ゲイである島田監督の視点でまとめられているため、<見る>/<見られる>関係が固定化されず、時には監督自身も<見られる>立場となります。
特に、綾さんの生活に密着したパートでは、島田監督と綾さんの間に、<見る側>(撮る側)と<見られる側>(撮られる側)を超えた信頼関係があるように、感じました。

映画鑑賞後に、島田監督と実際にお会いして、お話することが出来て、とても良かったです。
今後も、島田監督の活動を応援したいです。



★島田暁監督の公式ブログ「フツーに生きてるGAYの日常」


鑑賞日:2011年7月3日、第6回青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバルにて

2011/06/02

ハリウッド版「戦争と平和」(キング・ヴィダー監督)

戦争と平和 [DVD]
戦争と平和 [DVD]
  • 発売元: パラマウント ジャパン
  • 発売日: 2006/04/21

キング・ヴィダー監督「戦争と平和」(1956年)を観ました。
原作はもちろん、レフ・トルストイの大長編『戦争と平和』です。
ピエール役をヘンリー・フォンダ、アンドレイ公爵役をメル・ファーラー、ナターシャ役をオードリー・ヘップバーンが演じています。
映画はナターシャを主人公に、アンドレイ公爵への初恋と婚約、放蕩貴族のアナトーリに誘惑され、駆落ちを計画するも失敗、婚約破棄の後に失意のナターシャを献身的に支える幼なじみのピエール、アンドレイ公爵の従軍と死などが、めまぐるしく描かれます。
ナポレオン戦争は、恋物語を演出する舞台装置といった程度。

原作は、ナポレオン戦争時代そのものがテーマの群像劇。
さまざまな登場人物の各々異なる物語が、時に交差したり、すれ違ったりしながら、同時に描かれています。
映画は、長い長い原作の中からナターシャのエピソードだけを取り出して、<少女の成長+恋愛物語>に仕立て直したようです。
もはや、原作のキャラクターを使った二次創作といった印象ですね。

原作と切り離して考えれば、オードリーはキュートだし、ヘンリー・フォンダは格良いし、帝政ロシアのコスチュームはいかにもだし、なかなか良かったです。

◇◇◇

映画のピエールは、スマートで知的な青年貴族でとても格好良いのですが、原作のイメージとは大違いです。
原作だと、アンドレイ公爵は大貴族で、才能があり、非常に格好良いキャラクターです。
一方、ピエールは同じ大貴族でも、肥満体で愛嬌があるキャラクターで、妻に浮気され放題だったり、熱心なフリーメーソンだったり。
ナターシャは、アンドレイ公爵やアナトーリ・クラーギンに心奪われるも、最終的にはピエールの真正直さと優しさにひかれ、真の愛に目覚めるという感じなのですが、映画ではアンドレイ公爵もピエールもどちらもイケメンなので、最終的にピエールと結婚するインパクトが弱いんですね~。
というか、こんなに格好良い幼なじみがいたら、ナターシャも真っ先に結婚するだろうと突っ込みたくなります。大貴族だし。
やっぱり、ピエールは不器用で格好悪くて、ふとっているけれど、内面の美しさ、誠実さがにじみでるキャストの方が良かったのに、と思いました。

トルストイの『戦争と平和』は、ソ連でも映画化されているそうです。ソ連版は原作に忠実らしいので、いつか見てみたいですね。


鑑賞日:2008年7月26日

2011/02/14

宮坂靖子「「お産」の社会史」

母性 (新編 日本のフェミニズム)
母性 (新編 日本のフェミニズム)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 2009/04/28

『新編 日本のフェミニズム 5 母性』(岩波書店)を読みました。
第1部は、「母性」という言葉がどのような社会背景のもとで形成・使用されてきたのかを考察する論文が収録されています。
第2部は、明治から現代まで「子どもを産む」という女性の営みとそれに関わる社会的条件や環境が、どのように変化してきたのかを明らかにするような論文が収録されています。

収録論文の中で、宮坂靖子「「お産」の社会史」が、面白かったので、要点をまとめたいと思います。
「「お産」の社会史」は、産婆制度の変遷や避妊法の普及に着眼しながら、明治から大正末までの出産の歴史を明らかにしています。

◇◇◇

宮坂靖子「「お産」の社会史」(初出 『〈教育〉―誕生と終焉』、1990年)

1. 新旧産婆の交替

●「トリアゲ婆」=旧産婆
お産は本来一人でするもので、それゆえの座産(19世紀末から20世紀初頭でも)
...お産の時、助産者を用いないことを誇りとする地域も

19世紀後半(地域によっては1930年代頃)まで
助産者=「トリアゲ婆」「とりあげ婆さん」
...産婦と地縁、血縁で色濃くつながっている身近な生活者、謝礼もほとんど無し
...村落内で頭もよく度胸もすわり、することも手早い、女性として尊敬されている人
→お産そのものが「のっぴきならない女性同士の相互扶助的な人助け」
→助産の経験は地域の共通財産


●旧産婆の放逐
1874年、文部省布達「医制」において、産婆の資格・職務範囲などを制限
→旧産婆を取締る方向に

医学校に産婆教場が併設...西洋医学に基づいた新産婆養成のため
→新産婆が教師と並ぶ知識人に
→医学校付属産婆教場入学者は、士族・医師・寺院など中産階級の子女

1899年、産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿登録規則が制定
日露戦争時、「産婆の黄金時代」

★明治政府の産婆制度整備事業→富国強兵策の一環

①医師による旧産婆の放逐...女性たちの経験により受け継がれてきたお産の習俗を「不潔」として批判、「生意気ナル産婆」として旧産婆を否定

②新産婆による旧産婆の放逐...お産の習俗を「改善」する努力を重ねる
=座産を仰臥位産にし、産褥期の充分な栄養摂取を可能にする過程
→お産の悲劇を見聞し、「人の命を救う」強い使命感に支えられていた

③産む側からの旧産婆の放逐=新産婆の受容

1890年代、旧産婆を依頼する者の方が圧倒的に多い
1895~1902年生まれで、初産が1911~1925年の女性...旧産婆によるお産
→新産婆が若く経験が少ない、経済的負担が重い、仰臥位産をさせる新産婆を「西洋産婆」と怖がり敬遠

1907~1912年生まれで、初産が1929年以降の女性...新産婆によるお産
...仰臥位産こそが、「一番モダーンで、一番権威のある正当な分娩方法」とみなされた
→「教育されたこと」への信頼が増し、「より高く確実な権威ほど良しとする尺度」がお産にも浸透した


●お産に関する情報と情報伝達をめぐる人間関係の変容

旧産婆の時代...お産の体験に基づいた注意、生活や労働の場で母・祖母・叔母たちから口伝で受け継がれてきた
新産婆の時代...情報源は新産婆、新産婆による教本
→産婦の母・姑がお産をめぐる人間関係から排除され、産婦と新産婆の二者関係に
=女性のネットワークが衰弱、お産の相互扶助的性格が喪失


2. 「避妊」の社会史

●「避妊」以前
江戸時代の産児制限手段=堕胎・間引き
...単なる貧困のためではなく、「生活水準」の維持・向上が動機

堕胎・間引きの意思決定...産む当事者の意思ではなく、「いえ」の意思
→単なる「いえ」的処理を越えて「ムラ」としての規則(共同体の意思)でもあった

19世紀後半、堕胎の危険性が広く知られる→堕胎が減少、間引きが増加
...母体を損なわない間引きの方が「自然」とみなされた

江戸時代の避妊法...祈願、まじない、ほおずきの根を煎じて飲むなど生理的方法、用具
→一般民衆が夫婦間で用いるものではない
=「正式の結婚」ではなく「もぐりの、人目をはばかる性的関係」に用いられた


●生命監視装置としての新産婆
旧産婆「トリアゲ婆」...お産同様に間引きに関与
「取り上げる」という語は、今日の「抱き取る」という意味だけではなく、「生存の承認」を含意していた
→お産は産児の生殺与奪権を含み、今日とは全く異なる生命観・霊魂観に基づく

新産婆...間引きは撲滅すべき「悪習」
...受胎を生命の始まり、お産を「新たな生命が生まれてくる神聖なもの」する生命倫理観に基づく
→産まれてくるすべての子どもの生存権確保に貢献
→妊娠確認以後の堕胎・間引きを監視する役割に

★新産婆は、「妊娠の承認」を「産み育てることの宣言」にまで格上げ
→確実な避妊法の無い時代に、出生抑制への道を狭隘化
=頻産・多産にまつわる新たな苦悩を母子双方に与えることに


●避妊の必要から普及へ

『主婦之友』(1917年創刊号~1935年12月号)における避妊に関する記事の分類と各期の特徴

1919~1922年...第1期「理念」 男性知識人により産児制限論が主張される
→富国強兵策に基づく人口問題の視点、優生学的思想

1923~1924年...第2期「必要」 頻産・多産から生じる産む当事者の精神的肉体的苦痛
→避妊の必要を痛感し、「合理的」避妊法についての知識を切望

1925~1930年...第3期「実験」 新聞・雑誌などから避妊の情報を集め、試行錯誤を経て、避妊に「成功」
産児調節の「成功」談が読者の反響を呼ぶ
「成功」談の当事者が「産児調節の器具」の頒布(当初は善意から、後には誌面に広告を出して商売に)

避妊の動機が、頻産・多産からだけでなく、今日的な「家族計画」のケースが登場
→子どもは「足手纏」から「愛児」へ変化
→子どもは「授かるもの」から「つくるもの」への変化
=子どもに対する「近代的」意識の確立

1930~1935年...第4期「普及」 新中間層に避妊がかなり普及した段階、「失敗」談の登場
「失敗」の結果は、妻の病気・障害、障害のある子どもの出産、夫の不貞
失敗談から浮上する問題点...①避妊に対する夫の関心が希薄、実行に非協力的
②避妊を「天理」に反する「不自然な行為」とし、その「失敗」は「天からの采配」と避妊自体を反省
→危機状況に陥った時、「性=生殖」理念の強化という反動形成に



読了日:2011年2月14日

2011/01/12

トルストイ「幼年時代」

幼年時代 (岩波文庫)
幼年時代 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店


2010年はトルストイ没後100周年ということで、トルストイのデビュー作『幼年時代』(1852年)を読みました。
『幼年時代』は、10歳のニコライ(愛称 ニコーレニカ)少年を主人公に、前半は狩りを中心とする一日の出来事、後半は舞踏会を中心とする祖母の「名の日」の出来事を描いています。

前半と後半をつなぐのは、<母親>のテーマです。前半の最後では、生まれ育ったペトロフスコエ村からモスクワへ旅立つことによる母親との別れが描かれ、後半の最後には母親の死が描かれています。

小さな綿入れのガウンを着て、聖像の前に立ち、「主よ、パパとママを救いたまえ」と言ったとき、どれほどすばらしい気持ちをあじわったことか! はじめてのとき、愛する母のあとについて、おさない私の口がたどたどしくとなえたお祈りを、こうしてくりかえすと、母への愛と神への愛が、なにか奇妙に一つの感情にとけあうのだった。
(トルストイ『幼年時代』藤沼 貴訳、以下同)

幼年時代に人が持っている清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力は、いつの日かよみがえるのだろうか? この上もなくすばらしい二つの美徳―無邪気な快活さと無限の愛の欲求―だけが人生の原動力だった時にまさる時期があるのだろうか?

『幼年時代』の前半では、ニコーレニカは「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を持っていました。
「無限の愛の欲求」とは、母親や神を無心に愛する気持ちのことで、両者は一体であったため、「愛の欲求」は「信仰の力」と同じでした。

◇◇◇

モスクワでの一日を描いた後半では、ニコーレニカは母と神に対する「無限の愛」とは別の愛を知るようになります。
かれが私の心に呼びさました、はげしい愛着の気もちのほかに、かれがそばにいると、私はそれに劣らずはげしい、もう一つの感情をあじわった、それは、かれを悲しますまい、なにかで気を悪くさせまい、きらわれまいという恐怖だった...(中略)...私たちはお互いに、愛情のことなどひとことも話さなかった。しかし、かれは自分が私にたいして権力を持っていることを感じていて、私の子どもらしい関係の中で、その権力を、無意識だが、暴君のように行使するのだった。

ニコーレニカは、親戚のセリョージャ少年に強く憧れ、「愛情」と同じ程度の「恐怖」を感じます。
セリョージャは、貧しい外国人のイーレニカ少年をいじめて遊びますが、ニコーレニカはイーレニカに対して同情の心を持たず、「軽蔑すべき存在」とさえ感じていました。ニコーレニカの心の変化は、セリョージャへの愛情と、彼と同じような「威勢のいい男を気どりたいという願い」のためでした。

しかしその夜、ニコーレニカは舞踏会で一緒にカドリールを踊った少女、ソーネチカに恋をします。

イーピン兄弟と別れをつげるとき、私はとてもざっくばらんに、いくらかつめたいぐらいに、セリョージャとことばをかわし、握手をした。かれはきょうから自分が私の愛を失い、私にたいする自分の権力を失ったことをさとったら、まったく平気なふりをしようとつとめたにしても、きっと、残念に思ったに違いない。
私は生まれてはじめて愛の裏切りをし、はじめてその愛情の甘美さをあじわった。私は手あかのついたなれきった愛を、神秘と未知にあふれた新鮮な愛の感情にとりかえるのがうれしかった。

故郷の村を出て、母から離れたことで、ニコーレニカは幼年時代から新しい時代へと移りはじめました。
「大人のまねをしたいという奇妙な願い」のために、無邪気さや多感さを捨て、慎重さや冷淡さ、軽蔑することや自尊心、残酷なふるまいを身につけます。
そして、「神秘と未知」の喜びはあるけれど、同じ程度に「恐怖」であり、「心がわり」もする不安定な愛を知り、「こまやかな子どもらしい愛情の清純な喜び」を失っていくのです。

◇◇◇

母親は、死を目前にして夫と子供たちに手紙を書きます。

私はあなたたちといっしょにはいなくなります。でも、私の愛はけっしてあなたたちを離れないだろうと、かたく信じています、そして、この考えが私の心をとても喜ばせてくれるので、私は静かに、恐れることもなく、死が近づくのを待ち受けています。

子供たちへ向けた母親の愛情は、見返りを求めない「無限の愛」、神の愛にも似たものでした。
幼年時代に、ニコーレニカが「清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力」を持ち、母親や神に「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を向けることができたのは、母親のより大きな愛に満たされていたからだと思います。
そのため、母親の死とともに、ニコーレニカの幼年時代は終わったのでしょう。

ママの死と同時に、私にとって、しあわせな幼年時代が終り、新しい時代 ― 少年時代がはじまった。


読了日:2010年12月4日

2011/01/04

ドストエフスキー「貧しき人びと」

貧しき人びと (新潮文庫)
貧しき人びと (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 460
  • 発売日: 1969/06

2010年の年末から2011年の年明けに、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録の、木村浩訳です。
今年は、ドストエフスキーを全作品読むという長期計画のスタート年にしようと思っています。


『貧しき人びと』は、ドストエフスキーが23歳の若さで書いたデビュー作です。
ペテルブルグを舞台に、中年で独り身の下級官吏マカール・ジェーヴシンキンと、身寄りのない薄幸の娘ワルワーラ(愛称 ワーレンカ)との間で交わされる往復書簡で構成された、書簡体小説です。

マカール・ジェーヴシンキンは、ゴーゴリの『外套』(1842年)のアカーキー・アカーキエヴィッチと同じく、筆耕を職業とする万年九等官です。
帝政ロシアの官僚制度は、18世紀にピョートル大帝が設定した「官吏等級表」に基づいていて、一から十四等級まで分けられています。
ノンキャリアの場合、十四等官からスタートして、どんなに努力しても九等官までしか出世することが出来なかったそうです。
この哀れな小役人を題材にした<役人もの>が当時流行し、ゴーゴリの『外套』はその最大の見本でした。

ドストエフスキーは、『貧しき人びと』で『外套』をパロディ化しています。
『貧しき人びと』の中には、マカール・ジェーヴシンキンが、ゴーゴリの『外套』を読んで、直ちに自分と重ねてしまい、憤るエピソードがあります。

せめてあの結末のところで思い直して、もうすこし調子をやわらげ、たとえばあの男が頭の上へ紙切れを振りかけられる件のあとに、それにも拘らず彼は善良な市民であり、同僚からこんな仕打ちを受けるいわれのない人間であり、上司の命令によく従い(ここに何か実例をあげてもいいでしょう)、誰にも悪かれと望んだことはなく、信心ぶかく、そして死んだときにも(作者がどうしてもこの男を死なせたいなら)みなから惜しまれて泣かれた―とでもすればよかったのです。でもなんといっても、いちばんいいのはこの気の毒な男を殺さないでおいて、なくなった外套もみつかり、あの将軍は彼の善行をくわしく知って、自分の役所へ引き取り、官等をあげ、月給もあげてやった、というようにすることですよ。そうすれば、悪は罰せられ、善はさかえ、仲間の役人たちは何も得をしなかったことになるでしょう。
(木村浩訳『貧しき人びと』、以下同)

ゴーゴリの『外套』は、滑稽でグロテスクな笑いが特徴ですが、『貧しき人びと』には、無名の小さな人間への敬意と愛着があります。

◇◇◇

マカール・ジェーヴシンキンは、ワルワーラを支えようとすればするほど、貧しくなり、孤立を深めていきます。

ワルワーラさん! わたしの可愛い人! わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました。...(中略)...晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました! わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました!

マカールは憂さ晴らしにウォッカを飲み、失態を重ねますが、ワルワーラは彼を励まし、懸命に支えようとします。

マカール・ジェーヴシンキンさま! いったいあなたはどうなさったんですの?...(中略)...どうか立派な人間になってくださいまし。不幸にもめげずにしっかりしていてくださいまし。貧乏は罪ではない、ということを忘れないでくださいまし。それに、こんなことはみんな一時のことじゃありませんか! 神さまがすっかり立てなおしてくださいますよ、今はただあなたさえ頑張ってくださればいいのです。

ところがある日、地主のブイコフが、ワルワーラのもとを訪れ、結婚を申し込みます。
彼女は、自分の「恥辱をそそぎ、名誉を回復」し、「貧困と欠乏と不幸」から抜け出すために、ブイコフとの結婚を承諾します。
ワルワーラは、マカールに「永久にお別れ」をして、ブイコフの領地へ慌ただしく旅立っていきました。
残されたマカールは、出すあてのない手紙を書き続けるのです。

わたしにとってかけがえのない可愛いワーレンカ! きみは連れて行かれるのです。きみは行ってしまうのです! ああ、きみを取り上げられるくらいなら、わたしはこの心臓を掴みだされた方がずっとましです! いったいきみはどうしたんです! だってきみは泣きながら、しかも発っていかれるんですね? 今きみからのお手紙を受けとりました。すっかり涙でにじんでいます。ということは、きみは行きたくないんですね。つまり、きみは無理に連れて行かれるのですね、つまり、きみはわたしをかわいそうだと思っているんですね。つまり、きみはわたしを愛してくださっているんですね!

◇◇◇

ゼラニウムの鉢植えや、お菓子を1ポンドも贈るなど、自分の生活を犠牲にしてワルワーラに愛情を注いだマカールの姿は、愚かで滑稽ですが、どこか愛すべきところがあります。
ちっぽけで無力な人間の、喜怒哀楽の模様を見つめる、ドストエフスキーの温かい眼差しを感じました。
二人の交わす心温まる手紙は、マカールの古いアパートの思い出や、ワーレンカの少女時代の思い出など、貧しくも幸福な生活が、抒情豊かに、センチメンタルな情景描写で彩られています。

『貧しき人びと』は、<涙を通した笑い>があり、若きドストエフスキーの素朴なヒューマニズムとセンチメンタリズムが魅力だと思いました。


読了日:2011年1月1日