2011/01/12

トルストイ「幼年時代」

幼年時代 (岩波文庫)
幼年時代 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店


2010年はトルストイ没後100周年ということで、トルストイのデビュー作『幼年時代』(1852年)を読みました。
『幼年時代』は、10歳のニコライ(愛称 ニコーレニカ)少年を主人公に、前半は狩りを中心とする一日の出来事、後半は舞踏会を中心とする祖母の「名の日」の出来事を描いています。

前半と後半をつなぐのは、<母親>のテーマです。前半の最後では、生まれ育ったペトロフスコエ村からモスクワへ旅立つことによる母親との別れが描かれ、後半の最後には母親の死が描かれています。

小さな綿入れのガウンを着て、聖像の前に立ち、「主よ、パパとママを救いたまえ」と言ったとき、どれほどすばらしい気持ちをあじわったことか! はじめてのとき、愛する母のあとについて、おさない私の口がたどたどしくとなえたお祈りを、こうしてくりかえすと、母への愛と神への愛が、なにか奇妙に一つの感情にとけあうのだった。
(トルストイ『幼年時代』藤沼 貴訳、以下同)

幼年時代に人が持っている清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力は、いつの日かよみがえるのだろうか? この上もなくすばらしい二つの美徳―無邪気な快活さと無限の愛の欲求―だけが人生の原動力だった時にまさる時期があるのだろうか?

『幼年時代』の前半では、ニコーレニカは「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を持っていました。
「無限の愛の欲求」とは、母親や神を無心に愛する気持ちのことで、両者は一体であったため、「愛の欲求」は「信仰の力」と同じでした。

◇◇◇

モスクワでの一日を描いた後半では、ニコーレニカは母と神に対する「無限の愛」とは別の愛を知るようになります。
かれが私の心に呼びさました、はげしい愛着の気もちのほかに、かれがそばにいると、私はそれに劣らずはげしい、もう一つの感情をあじわった、それは、かれを悲しますまい、なにかで気を悪くさせまい、きらわれまいという恐怖だった...(中略)...私たちはお互いに、愛情のことなどひとことも話さなかった。しかし、かれは自分が私にたいして権力を持っていることを感じていて、私の子どもらしい関係の中で、その権力を、無意識だが、暴君のように行使するのだった。

ニコーレニカは、親戚のセリョージャ少年に強く憧れ、「愛情」と同じ程度の「恐怖」を感じます。
セリョージャは、貧しい外国人のイーレニカ少年をいじめて遊びますが、ニコーレニカはイーレニカに対して同情の心を持たず、「軽蔑すべき存在」とさえ感じていました。ニコーレニカの心の変化は、セリョージャへの愛情と、彼と同じような「威勢のいい男を気どりたいという願い」のためでした。

しかしその夜、ニコーレニカは舞踏会で一緒にカドリールを踊った少女、ソーネチカに恋をします。

イーピン兄弟と別れをつげるとき、私はとてもざっくばらんに、いくらかつめたいぐらいに、セリョージャとことばをかわし、握手をした。かれはきょうから自分が私の愛を失い、私にたいする自分の権力を失ったことをさとったら、まったく平気なふりをしようとつとめたにしても、きっと、残念に思ったに違いない。
私は生まれてはじめて愛の裏切りをし、はじめてその愛情の甘美さをあじわった。私は手あかのついたなれきった愛を、神秘と未知にあふれた新鮮な愛の感情にとりかえるのがうれしかった。

故郷の村を出て、母から離れたことで、ニコーレニカは幼年時代から新しい時代へと移りはじめました。
「大人のまねをしたいという奇妙な願い」のために、無邪気さや多感さを捨て、慎重さや冷淡さ、軽蔑することや自尊心、残酷なふるまいを身につけます。
そして、「神秘と未知」の喜びはあるけれど、同じ程度に「恐怖」であり、「心がわり」もする不安定な愛を知り、「こまやかな子どもらしい愛情の清純な喜び」を失っていくのです。

◇◇◇

母親は、死を目前にして夫と子供たちに手紙を書きます。

私はあなたたちといっしょにはいなくなります。でも、私の愛はけっしてあなたたちを離れないだろうと、かたく信じています、そして、この考えが私の心をとても喜ばせてくれるので、私は静かに、恐れることもなく、死が近づくのを待ち受けています。

子供たちへ向けた母親の愛情は、見返りを求めない「無限の愛」、神の愛にも似たものでした。
幼年時代に、ニコーレニカが「清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力」を持ち、母親や神に「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を向けることができたのは、母親のより大きな愛に満たされていたからだと思います。
そのため、母親の死とともに、ニコーレニカの幼年時代は終わったのでしょう。

ママの死と同時に、私にとって、しあわせな幼年時代が終り、新しい時代 ― 少年時代がはじまった。


読了日:2010年12月4日

2011/01/04

ドストエフスキー「貧しき人びと」

貧しき人びと (新潮文庫)
貧しき人びと (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 460
  • 発売日: 1969/06

2010年の年末から2011年の年明けに、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録の、木村浩訳です。
今年は、ドストエフスキーを全作品読むという長期計画のスタート年にしようと思っています。


『貧しき人びと』は、ドストエフスキーが23歳の若さで書いたデビュー作です。
ペテルブルグを舞台に、中年で独り身の下級官吏マカール・ジェーヴシンキンと、身寄りのない薄幸の娘ワルワーラ(愛称 ワーレンカ)との間で交わされる往復書簡で構成された、書簡体小説です。

マカール・ジェーヴシンキンは、ゴーゴリの『外套』(1842年)のアカーキー・アカーキエヴィッチと同じく、筆耕を職業とする万年九等官です。
帝政ロシアの官僚制度は、18世紀にピョートル大帝が設定した「官吏等級表」に基づいていて、一から十四等級まで分けられています。
ノンキャリアの場合、十四等官からスタートして、どんなに努力しても九等官までしか出世することが出来なかったそうです。
この哀れな小役人を題材にした<役人もの>が当時流行し、ゴーゴリの『外套』はその最大の見本でした。

ドストエフスキーは、『貧しき人びと』で『外套』をパロディ化しています。
『貧しき人びと』の中には、マカール・ジェーヴシンキンが、ゴーゴリの『外套』を読んで、直ちに自分と重ねてしまい、憤るエピソードがあります。

せめてあの結末のところで思い直して、もうすこし調子をやわらげ、たとえばあの男が頭の上へ紙切れを振りかけられる件のあとに、それにも拘らず彼は善良な市民であり、同僚からこんな仕打ちを受けるいわれのない人間であり、上司の命令によく従い(ここに何か実例をあげてもいいでしょう)、誰にも悪かれと望んだことはなく、信心ぶかく、そして死んだときにも(作者がどうしてもこの男を死なせたいなら)みなから惜しまれて泣かれた―とでもすればよかったのです。でもなんといっても、いちばんいいのはこの気の毒な男を殺さないでおいて、なくなった外套もみつかり、あの将軍は彼の善行をくわしく知って、自分の役所へ引き取り、官等をあげ、月給もあげてやった、というようにすることですよ。そうすれば、悪は罰せられ、善はさかえ、仲間の役人たちは何も得をしなかったことになるでしょう。
(木村浩訳『貧しき人びと』、以下同)

ゴーゴリの『外套』は、滑稽でグロテスクな笑いが特徴ですが、『貧しき人びと』には、無名の小さな人間への敬意と愛着があります。

◇◇◇

マカール・ジェーヴシンキンは、ワルワーラを支えようとすればするほど、貧しくなり、孤立を深めていきます。

ワルワーラさん! わたしの可愛い人! わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました。...(中略)...晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました! わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました!

マカールは憂さ晴らしにウォッカを飲み、失態を重ねますが、ワルワーラは彼を励まし、懸命に支えようとします。

マカール・ジェーヴシンキンさま! いったいあなたはどうなさったんですの?...(中略)...どうか立派な人間になってくださいまし。不幸にもめげずにしっかりしていてくださいまし。貧乏は罪ではない、ということを忘れないでくださいまし。それに、こんなことはみんな一時のことじゃありませんか! 神さまがすっかり立てなおしてくださいますよ、今はただあなたさえ頑張ってくださればいいのです。

ところがある日、地主のブイコフが、ワルワーラのもとを訪れ、結婚を申し込みます。
彼女は、自分の「恥辱をそそぎ、名誉を回復」し、「貧困と欠乏と不幸」から抜け出すために、ブイコフとの結婚を承諾します。
ワルワーラは、マカールに「永久にお別れ」をして、ブイコフの領地へ慌ただしく旅立っていきました。
残されたマカールは、出すあてのない手紙を書き続けるのです。

わたしにとってかけがえのない可愛いワーレンカ! きみは連れて行かれるのです。きみは行ってしまうのです! ああ、きみを取り上げられるくらいなら、わたしはこの心臓を掴みだされた方がずっとましです! いったいきみはどうしたんです! だってきみは泣きながら、しかも発っていかれるんですね? 今きみからのお手紙を受けとりました。すっかり涙でにじんでいます。ということは、きみは行きたくないんですね。つまり、きみは無理に連れて行かれるのですね、つまり、きみはわたしをかわいそうだと思っているんですね。つまり、きみはわたしを愛してくださっているんですね!

◇◇◇

ゼラニウムの鉢植えや、お菓子を1ポンドも贈るなど、自分の生活を犠牲にしてワルワーラに愛情を注いだマカールの姿は、愚かで滑稽ですが、どこか愛すべきところがあります。
ちっぽけで無力な人間の、喜怒哀楽の模様を見つめる、ドストエフスキーの温かい眼差しを感じました。
二人の交わす心温まる手紙は、マカールの古いアパートの思い出や、ワーレンカの少女時代の思い出など、貧しくも幸福な生活が、抒情豊かに、センチメンタルな情景描写で彩られています。

『貧しき人びと』は、<涙を通した笑い>があり、若きドストエフスキーの素朴なヒューマニズムとセンチメンタリズムが魅力だと思いました。


読了日:2011年1月1日