2011/01/04

ドストエフスキー「貧しき人びと」

貧しき人びと (新潮文庫)
貧しき人びと (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 460
  • 発売日: 1969/06

2010年の年末から2011年の年明けに、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録の、木村浩訳です。
今年は、ドストエフスキーを全作品読むという長期計画のスタート年にしようと思っています。


『貧しき人びと』は、ドストエフスキーが23歳の若さで書いたデビュー作です。
ペテルブルグを舞台に、中年で独り身の下級官吏マカール・ジェーヴシンキンと、身寄りのない薄幸の娘ワルワーラ(愛称 ワーレンカ)との間で交わされる往復書簡で構成された、書簡体小説です。

マカール・ジェーヴシンキンは、ゴーゴリの『外套』(1842年)のアカーキー・アカーキエヴィッチと同じく、筆耕を職業とする万年九等官です。
帝政ロシアの官僚制度は、18世紀にピョートル大帝が設定した「官吏等級表」に基づいていて、一から十四等級まで分けられています。
ノンキャリアの場合、十四等官からスタートして、どんなに努力しても九等官までしか出世することが出来なかったそうです。
この哀れな小役人を題材にした<役人もの>が当時流行し、ゴーゴリの『外套』はその最大の見本でした。

ドストエフスキーは、『貧しき人びと』で『外套』をパロディ化しています。
『貧しき人びと』の中には、マカール・ジェーヴシンキンが、ゴーゴリの『外套』を読んで、直ちに自分と重ねてしまい、憤るエピソードがあります。

せめてあの結末のところで思い直して、もうすこし調子をやわらげ、たとえばあの男が頭の上へ紙切れを振りかけられる件のあとに、それにも拘らず彼は善良な市民であり、同僚からこんな仕打ちを受けるいわれのない人間であり、上司の命令によく従い(ここに何か実例をあげてもいいでしょう)、誰にも悪かれと望んだことはなく、信心ぶかく、そして死んだときにも(作者がどうしてもこの男を死なせたいなら)みなから惜しまれて泣かれた―とでもすればよかったのです。でもなんといっても、いちばんいいのはこの気の毒な男を殺さないでおいて、なくなった外套もみつかり、あの将軍は彼の善行をくわしく知って、自分の役所へ引き取り、官等をあげ、月給もあげてやった、というようにすることですよ。そうすれば、悪は罰せられ、善はさかえ、仲間の役人たちは何も得をしなかったことになるでしょう。
(木村浩訳『貧しき人びと』、以下同)

ゴーゴリの『外套』は、滑稽でグロテスクな笑いが特徴ですが、『貧しき人びと』には、無名の小さな人間への敬意と愛着があります。

◇◇◇

マカール・ジェーヴシンキンは、ワルワーラを支えようとすればするほど、貧しくなり、孤立を深めていきます。

ワルワーラさん! わたしの可愛い人! わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました。...(中略)...晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました! わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました!

マカールは憂さ晴らしにウォッカを飲み、失態を重ねますが、ワルワーラは彼を励まし、懸命に支えようとします。

マカール・ジェーヴシンキンさま! いったいあなたはどうなさったんですの?...(中略)...どうか立派な人間になってくださいまし。不幸にもめげずにしっかりしていてくださいまし。貧乏は罪ではない、ということを忘れないでくださいまし。それに、こんなことはみんな一時のことじゃありませんか! 神さまがすっかり立てなおしてくださいますよ、今はただあなたさえ頑張ってくださればいいのです。

ところがある日、地主のブイコフが、ワルワーラのもとを訪れ、結婚を申し込みます。
彼女は、自分の「恥辱をそそぎ、名誉を回復」し、「貧困と欠乏と不幸」から抜け出すために、ブイコフとの結婚を承諾します。
ワルワーラは、マカールに「永久にお別れ」をして、ブイコフの領地へ慌ただしく旅立っていきました。
残されたマカールは、出すあてのない手紙を書き続けるのです。

わたしにとってかけがえのない可愛いワーレンカ! きみは連れて行かれるのです。きみは行ってしまうのです! ああ、きみを取り上げられるくらいなら、わたしはこの心臓を掴みだされた方がずっとましです! いったいきみはどうしたんです! だってきみは泣きながら、しかも発っていかれるんですね? 今きみからのお手紙を受けとりました。すっかり涙でにじんでいます。ということは、きみは行きたくないんですね。つまり、きみは無理に連れて行かれるのですね、つまり、きみはわたしをかわいそうだと思っているんですね。つまり、きみはわたしを愛してくださっているんですね!

◇◇◇

ゼラニウムの鉢植えや、お菓子を1ポンドも贈るなど、自分の生活を犠牲にしてワルワーラに愛情を注いだマカールの姿は、愚かで滑稽ですが、どこか愛すべきところがあります。
ちっぽけで無力な人間の、喜怒哀楽の模様を見つめる、ドストエフスキーの温かい眼差しを感じました。
二人の交わす心温まる手紙は、マカールの古いアパートの思い出や、ワーレンカの少女時代の思い出など、貧しくも幸福な生活が、抒情豊かに、センチメンタルな情景描写で彩られています。

『貧しき人びと』は、<涙を通した笑い>があり、若きドストエフスキーの素朴なヒューマニズムとセンチメンタリズムが魅力だと思いました。


読了日:2011年1月1日