2011/02/14

宮坂靖子「「お産」の社会史」

母性 (新編 日本のフェミニズム)
母性 (新編 日本のフェミニズム)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 2009/04/28

『新編 日本のフェミニズム 5 母性』(岩波書店)を読みました。
第1部は、「母性」という言葉がどのような社会背景のもとで形成・使用されてきたのかを考察する論文が収録されています。
第2部は、明治から現代まで「子どもを産む」という女性の営みとそれに関わる社会的条件や環境が、どのように変化してきたのかを明らかにするような論文が収録されています。

収録論文の中で、宮坂靖子「「お産」の社会史」が、面白かったので、要点をまとめたいと思います。
「「お産」の社会史」は、産婆制度の変遷や避妊法の普及に着眼しながら、明治から大正末までの出産の歴史を明らかにしています。

◇◇◇

宮坂靖子「「お産」の社会史」(初出 『〈教育〉―誕生と終焉』、1990年)

1. 新旧産婆の交替

●「トリアゲ婆」=旧産婆
お産は本来一人でするもので、それゆえの座産(19世紀末から20世紀初頭でも)
...お産の時、助産者を用いないことを誇りとする地域も

19世紀後半(地域によっては1930年代頃)まで
助産者=「トリアゲ婆」「とりあげ婆さん」
...産婦と地縁、血縁で色濃くつながっている身近な生活者、謝礼もほとんど無し
...村落内で頭もよく度胸もすわり、することも手早い、女性として尊敬されている人
→お産そのものが「のっぴきならない女性同士の相互扶助的な人助け」
→助産の経験は地域の共通財産


●旧産婆の放逐
1874年、文部省布達「医制」において、産婆の資格・職務範囲などを制限
→旧産婆を取締る方向に

医学校に産婆教場が併設...西洋医学に基づいた新産婆養成のため
→新産婆が教師と並ぶ知識人に
→医学校付属産婆教場入学者は、士族・医師・寺院など中産階級の子女

1899年、産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿登録規則が制定
日露戦争時、「産婆の黄金時代」

★明治政府の産婆制度整備事業→富国強兵策の一環

①医師による旧産婆の放逐...女性たちの経験により受け継がれてきたお産の習俗を「不潔」として批判、「生意気ナル産婆」として旧産婆を否定

②新産婆による旧産婆の放逐...お産の習俗を「改善」する努力を重ねる
=座産を仰臥位産にし、産褥期の充分な栄養摂取を可能にする過程
→お産の悲劇を見聞し、「人の命を救う」強い使命感に支えられていた

③産む側からの旧産婆の放逐=新産婆の受容

1890年代、旧産婆を依頼する者の方が圧倒的に多い
1895~1902年生まれで、初産が1911~1925年の女性...旧産婆によるお産
→新産婆が若く経験が少ない、経済的負担が重い、仰臥位産をさせる新産婆を「西洋産婆」と怖がり敬遠

1907~1912年生まれで、初産が1929年以降の女性...新産婆によるお産
...仰臥位産こそが、「一番モダーンで、一番権威のある正当な分娩方法」とみなされた
→「教育されたこと」への信頼が増し、「より高く確実な権威ほど良しとする尺度」がお産にも浸透した


●お産に関する情報と情報伝達をめぐる人間関係の変容

旧産婆の時代...お産の体験に基づいた注意、生活や労働の場で母・祖母・叔母たちから口伝で受け継がれてきた
新産婆の時代...情報源は新産婆、新産婆による教本
→産婦の母・姑がお産をめぐる人間関係から排除され、産婦と新産婆の二者関係に
=女性のネットワークが衰弱、お産の相互扶助的性格が喪失


2. 「避妊」の社会史

●「避妊」以前
江戸時代の産児制限手段=堕胎・間引き
...単なる貧困のためではなく、「生活水準」の維持・向上が動機

堕胎・間引きの意思決定...産む当事者の意思ではなく、「いえ」の意思
→単なる「いえ」的処理を越えて「ムラ」としての規則(共同体の意思)でもあった

19世紀後半、堕胎の危険性が広く知られる→堕胎が減少、間引きが増加
...母体を損なわない間引きの方が「自然」とみなされた

江戸時代の避妊法...祈願、まじない、ほおずきの根を煎じて飲むなど生理的方法、用具
→一般民衆が夫婦間で用いるものではない
=「正式の結婚」ではなく「もぐりの、人目をはばかる性的関係」に用いられた


●生命監視装置としての新産婆
旧産婆「トリアゲ婆」...お産同様に間引きに関与
「取り上げる」という語は、今日の「抱き取る」という意味だけではなく、「生存の承認」を含意していた
→お産は産児の生殺与奪権を含み、今日とは全く異なる生命観・霊魂観に基づく

新産婆...間引きは撲滅すべき「悪習」
...受胎を生命の始まり、お産を「新たな生命が生まれてくる神聖なもの」する生命倫理観に基づく
→産まれてくるすべての子どもの生存権確保に貢献
→妊娠確認以後の堕胎・間引きを監視する役割に

★新産婆は、「妊娠の承認」を「産み育てることの宣言」にまで格上げ
→確実な避妊法の無い時代に、出生抑制への道を狭隘化
=頻産・多産にまつわる新たな苦悩を母子双方に与えることに


●避妊の必要から普及へ

『主婦之友』(1917年創刊号~1935年12月号)における避妊に関する記事の分類と各期の特徴

1919~1922年...第1期「理念」 男性知識人により産児制限論が主張される
→富国強兵策に基づく人口問題の視点、優生学的思想

1923~1924年...第2期「必要」 頻産・多産から生じる産む当事者の精神的肉体的苦痛
→避妊の必要を痛感し、「合理的」避妊法についての知識を切望

1925~1930年...第3期「実験」 新聞・雑誌などから避妊の情報を集め、試行錯誤を経て、避妊に「成功」
産児調節の「成功」談が読者の反響を呼ぶ
「成功」談の当事者が「産児調節の器具」の頒布(当初は善意から、後には誌面に広告を出して商売に)

避妊の動機が、頻産・多産からだけでなく、今日的な「家族計画」のケースが登場
→子どもは「足手纏」から「愛児」へ変化
→子どもは「授かるもの」から「つくるもの」への変化
=子どもに対する「近代的」意識の確立

1930~1935年...第4期「普及」 新中間層に避妊がかなり普及した段階、「失敗」談の登場
「失敗」の結果は、妻の病気・障害、障害のある子どもの出産、夫の不貞
失敗談から浮上する問題点...①避妊に対する夫の関心が希薄、実行に非協力的
②避妊を「天理」に反する「不自然な行為」とし、その「失敗」は「天からの采配」と避妊自体を反省
→危機状況に陥った時、「性=生殖」理念の強化という反動形成に



読了日:2011年2月14日