2012/02/20

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)

★「三つの問い」の意味
大審問官は、福音書の「三つの誘惑」について論じることで、「彼」に問いかけている。
「悪魔が三つの問いのなかでおまえに告げ、おまえが退けたもの、つまり聖書のなかで<誘惑>と呼ばれている問い以上に、真実なことがほかに言えただろうか。」p.265
→大審問官は、福音書において「三つの誘惑」こそが「世界と人類の未来の歴史をあますところなく言い当てる」ものであると考えている。

  • 「三つの誘惑」(マタイによる福音書 第4章1節から11節)の位置づけ
    →イエスは、荒れ野で悪魔から試みを受けた。
    荒れ野での40日は、旧約聖書でイスラエルの人々が荒れ野を放浪した40年間を象徴している。
    悪魔の試みに対抗するために、イエスは旧約聖書の申命記から引用して応答している。
    申命記は、モーセが死を目前にしてイスラエルの人々にした説教であり、出エジプト以降のイスラエルの人々の足跡を辿る内容となっている。
    神がどのようにイスラエルを導いたか、神の導きにもかかわらずイスラエルの人々がたびたび不信仰に陥り、その不信仰の結果、40年間荒野を放浪したことが強調されている。
    ※申命記は、これまでモーセが民に伝えてきた律法の要約。「申命」とは「重ねて命じる」という意味。
  • ※マルコ1章12節から13節、ルカ4章1節から13節も「三つの誘惑」のバリアント。


→大審問官は、福音書の「三つの誘惑」をどのように解釈したのか?

第1の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
    イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」


    イエスの応答→申命記8章3節からの引用「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

  • <大審問官>
    「おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」p.267
    「その石ころをパンに変えてみろ、そうすれば人類は、感謝にあふれるおとなしい羊の群れのようにおまえのあとから走ってついてくるぞ。」p.267
    「ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしもその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。」p.267-268
    「非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目からみて、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?」p.269
    「パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。」p.272

    →大審問官は、イエスが最も大切にしたものは「自由」(=「信仰の自由」「良心の自由」)であると考えている。
    大審問官の考えでは、人間は「非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者」であるため、お互い分け合うことが出来ず、「自由」(=「天上のパン」)と「地上のパン」は両立しがたいものである。
    「自由」の問題の根底には、人間は「いっしょにひざまずける相手を求める」という問題がある。人間は、「地上のパン」を与えてくれる相手(=「ひざまずくべき相手」)に、自分の自由を喜んで差し出す。

    →しかし、「三つの誘惑」においてイエスは石をパンに変える奇跡を行わなかった。イエスは人間の「自由」を支配することをよしとせず、「地上のパン」を退けたことを意味している。
    イエスは「確固とした古代の掟」に従うのではなく、人間の「自由な愛」を望み、人間の自由を増大させた。
    →人間の自由が増大した一方で、「何が善で何が悪か」を自分なりに判断していかなくてはならないこと(=「良心の自由」)は、人間にとって恐ろしい重荷、苦しみとなった。


第2の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
    イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。


    ※第1の誘惑において、イエスが旧約聖書の言葉を引用して誘惑を退けた。そのため第2の誘惑では、悪魔自身も旧約聖書の言葉を引用して、巧みに誘惑している。

    悪魔の誘惑→詩編91章11節から12節の引用「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。」
    イエスの応答→申命記6章16節の引用「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

  • <大審問官>
    「おまえはその誘いをしりぞけ、誘いに負けて下に飛び降りることはしなかった。」p.275
    「しかしくり返すが、おまえのような人間が、はたして数多くいるものだろうか?」p.275
    「はたして人間の本性が、奇跡をしりぞけるように創られているものだろうか?」p.276
    「ところが、おまえは知らなかった。人間が奇跡をしりぞけるや、ただちに神をもしりぞけてしまうことをな。なぜなら人間というのは、神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。」p.276
    「人々がおまえをからかい、あざけりながら『十字架から降りてみろ、そしたらおまえだと信じてやる』と叫んだときも、おまえは十字架から降りなかった。おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」p.276-277

    →大審問官は、第2の誘惑では「奇跡」の問題を中心に論じている。人間の「自由」を支配することになるため、イエスは「奇跡」による信仰を退けた。
    この「奇跡」をめぐる議論も、第1の誘惑と同じく「自由」をめぐる問題が根底にある。大審問官の考えでは、イエスの望んだ「自由」に持ちこたえられる人間は数万人程度であり、残りの数十億人は「自由」を受け入れることが出来ない。
    →したがって大審問官たち(ローマ・カトリック)は、「自由」を重荷とする数十億人に対して、「信仰の自由」「良心の自由」よりも、「やみくもに従わなくてはならない神秘」こそが大事であると教えてきた。


第3の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
    すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


    イエスの応答→申命記6章13節の引用「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」

  • <大審問官>
    「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りもを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。」p.281
    「強大な悪魔のあの第三の忠告を受け入れていれば、おまえは、人間がこの地上で探しもとめているすべてを、埋め合わせられたではないか。つまり、だれにひざまずくべきか、だれに良心をゆだねるべきか、どのようにして、ついにはだれが、文句なしの、共通の仲むつまじい蟻塚に合一できるのかということだ。」p.282
    「世界と皇帝の帝衣を受け入れれば、全世界の王国の礎石を置き、全世界の平安を与えることができたのだ。なぜなら、人々の良心を支配し、その手に人々のパンを携えているものでなければ、人々を支配することはできないからだ。われわれは皇帝の剣を手にし、剣を手にすることで、むろんおまえをしりぞけ、あれのあとについて歩み出した。」p.282-283

    →大審問官の言う「あれ」とは、イエスを誘惑した「悪魔」を意味している。
    大審問官たち(ローマ・カトリック)は、イエスの「偉業を修正」して、「奇跡と神秘と権威」の上に築き上げた。「奇跡と神秘と権威」という三つの力こそ、イエスが「悪魔」から誘惑され、退けたものである。


→大審問官の解釈では、第1の誘惑と第2の誘惑は、「奇跡」「神秘」の問題を論じており、第3の誘惑は「権威」の問題を議論している。


★なぜアリョーシャは、物語詩「大審問官」を「イエス賛美」と言ったのか?

大審問官自身も、かつてはイエスの望んだ「自由」に耐え抜ける「選ばれた人々」の仲間となりたいと望み、荒れ野での修行に耐えた。
しかし、「自由」を重荷とする「従順な人々の幸せ」「何十億人の幸せ」のために、自分の「良心の自由」を犠牲にして、イエスの「偉業を修正」した人々(=「忌まわしい幸福のために権力を渇望する」)の仲間に入ったのである。

大審問官は、イエスではなく「悪魔」についていると語るが、実はイエスが大切にした「自由」(「信仰の自由」「良心の自由」)を批判しているのではなく、イエスの理想が絶対的に正しいと熱烈に信じている。

→そのため、アリョーシャはイワンの物語詩を「イエス賛美」と評したのである。
大審問官は、「自由」を受け入れられない何十億の人々に絶望しているが、同時に愛しており、彼らの望む幸福(=「囚人の奴隷的な歓び」)を与えるために、イエスの教えに反した自分の罪を自覚しながら、人々の「自由」を支配する権力者となった。

→イワンは、自らが創作した大審問官というキャラクターを「偉大な悲哀に苦しみ、人類を愛する受難者」「人類への愛を癒しきれなかった人間」と説明している。



※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。
※聖書からの引用文は、新共同訳です。


★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)