2012/09/29

ヘルタ・ミュラー「狙われたキツネ」

狙われたキツネ 新装版
狙われたキツネ 新装版
  • 発売元: 三修社
  • 発売日: 2009/11/14

ヘルタ・ミュラー『狙われたキツネ』(1992年)を読みました。
2012年5月の読書会課題本でした。

ヘルタ・ミュラーは、現在のルーマニア西部のバナード地方に、ハプスブルク帝国時代に入植したドイツ人の子孫「バナード・シュヴァーベン人」と呼ばれるドイツ系ルーマニア人の出身です。
1982年にルーマニアで発表した短編集『澱み』が、西ドイツでも注目を浴び、チャウシェスク政権から執筆禁止処分などの弾圧を受ける中、1987年についに西ドイツに出国。
1989年のチャウシェスク政権崩壊以降は、チャウシェスク時代のルーマニア、秘密警察による迫害をテーマに、執筆を続けています。
2009年に、ノーベル文学賞を受賞しました。

『狙われたキツネ』は、1989年の夏から冬にかけて、ルーマニアの地方都市ティミシュアラを舞台に、小学校教師アディーナと工場労働者クララの絶望的な日常が描かれています。

秘密警察に目をつけられたアディーナは、陰湿な脅迫を受けます。
アディーナが大切にしていたキツネの毛皮が、外出中に侵入した何者かの手によって、少しずつ切られていくのです。
アディーナの親友クララが、秘密警察セクリターテの将校パヴェルの愛人であったことが分かり、二人の友情も壊れます。
追いつめられて、田舎に逃亡したアディーナは、隠れている間にチャウシェスク政権が打倒されたことを知り、再び都市に戻ります。


◆◆◆

読んでいて、すごく気持ち悪くて、読み進めるのが辛かったです。
読書会の課題本でなければ、挫折していたと思います。
『狙われたキツネ』では、隠喩と擬人化が多用されていますが、それがとても生々しく、グロテスクに感じられました。

すぐ近くで<緑のナイフ>を持ったポプラの木がこっちの様子をじっとうかがっている。(ヘルタ・ミュラー『狙われたキツネ』山本浩司訳、25頁)

ダリアはよってたかってキッチンや寝室、皿やベッドをのぞき込んでいる(29頁)

街路樹の「ポプラ」や、「ダリア」の花までもが、監視国家の手先として感じられる描写に、相互監視社会に生きる人々の、極度の不安感が伝わってきます。

暗闇に乗じてポプラ並木がつぎからつぎへと道路を侵略しはじめる。あたりの家はこわごわと体を寄せ合っている。(33頁)

暗い低木の茂みのなかにひそんだ夜の軍勢は、もうしばらくうっそうと茂る葉のなかにそのまま隠れていようか、それともすぐに奇襲に打って出るか、決めかねている。いよいよ夕暮れの街で停電が起きると、夜の軍勢は下から襲いかかってきて、人々の体を脚から順に切り刻んでいく。(33-34頁)

敵意を持ち、攻撃的な「夜」のイメージは、秘密警察による拉致誘拐や暗殺への、生々しい恐怖感から生み出されるのでしょう。
このように、登場人物の精神状態が、自然や周囲の事物に投影されていく表現手法は、『狙われたキツネ』の特徴だと思います。
人々の不安感・恐怖感・絶望感から生み出されていくイメージ、いわば歪んだレンズを通して見る世界は、読者にとって不条理でグロテスクな寓話のように感じられるのですね。

◆◆◆

『狙われたキツネ』の原題は”Der Fuchs war damals schon der Jäger”です。
直訳すると、「あの頃、キツネはすでに猟師だった」という意味です。

アディーナが大切にしていたキツネの毛皮は、まず尻尾が切られ、次に一番目、二番目、三番目、四番目の肢が順番に切られていきました。
田舎に隠れていたアディーナは、独裁者夫妻の失脚を知り、都市にもどって来ましたが、その後もキツネに対する危害は止まず、最後には頭まで切られていました。

「とうとう頭がやられてしまった。結局、このキツネはやっぱりあくまで猟師だったのよ」と彼女が言う。(352頁)

このアディーナの台詞に、表題「あの頃、キツネはすでに猟師だった」が表現されています。
「キツネ」はアディーナ、「猟師」は迫害者(秘密警察・監視者)と言い換えることが出来ます。
すなわち、「キツネ」が「猟師」だとするなら、アディーナは「キツネ」であり同時に「猟師」でもあるということになります。
狩られるもの(被害者)と、狩るもの(加害者)の区別が曖昧になり、抑圧される民衆と悪しき権力者という単純な二分法では、説明できない状況が、表現されているのでしょう。

<家政婦の娘>は校長となっていた。前の校長は体操の教師に、体操の教師は教員組合の組合長に、物理の教師は「変革と民主主義」の責任者となっていた。(349頁)

ただ古いコートが新しいコートに変わっただけなのだ。(354頁)

独裁者夫妻の処刑後、解放された「キツネ」が、新たな迫害者「猟師」に変わるだけで、権力の構造には何の変化も無かったルーマニア革命に、深い失望感を持って、物語は終わります。


再読すると、作品冒頭の死んだハエを運ぶアリのイメージに、「あの頃、キツネはすでに猟師だった」という表題と、ルーマニア革命後の失望感が、凝縮されているように感じました。

アリがハエの死骸を運んでいる。獲物が大きすぎるせいで前が見えないアリは、ハエをひっくり返し、後ずさりして運ぼうとしている。(9頁)

こんなふうに地面を這いまわってはいるが、アリはとても生きているとはいえないし、人間の目からすると、およそ生きものには見えない。なぜなら地面を這いまわるというだけなら、街のはずれのサヤエンドウだってそうしているではないか。死んでいるはずのハエが生きものだと言えるのは、それがアリよりも三倍も大きくて運ばれているせいだ。人間の目から見れば、このハエこそが生きものなのだ。(9頁)

「ハエの死骸」は国家(権力)、「アリ」はルーマニア国民(民衆)と言い換えることが出来ます。
「アリ」が運ばなければ、「ハエの死骸」は動くことができません。
実は「キツネ」と「猟師」が一体化していたように、死んだ「ハエ」を動かしているのは「アリ」であり、動かしている間、「アリ」は自分の前が見えないのです。




読了日:2012年5月12日