2013/05/27

ヨハンナ・シュピリ「アルプスの少女ハイジ」

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2006/07


ヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳、角川書店)を読みました。
先日、アニメ「アルプスの少女ハイジ」の再放送を観て、手に取りました。
アニメよりも、原作の方がずっと良いと思います。とても感動しました!

アニメのハイジは、明るく元気なところが魅力です。
原作でも、明るく元気なところは同じですが、それよりもハイジの美点として強調されるのは、利発であることです。
原作では、ハイジの利発さが、作品冒頭から強調されているため、おじいさんがハイジを教会にも学校にも行かせず、学校に行かせるよう説得に来た牧師を拒否する、というエピソードが、より際立っています。

ゼーゼマン家において、ハイジは読み書きとともに、信仰を教えられます。
クララの祖母であるゼーゼマン夫人は、ハイジに祈ることを教え、挿絵つきの聖書物語をプレゼントしました。
クララの家庭教師が、どんなに苦労しても、読み書きを覚えなかったハイジは、「羊飼と羊の絵」を読みたいという気持ちから、読み書きを覚える意欲が湧き、持ち前の利発さで、あっという間に物語を読めるようになります。

ハイジの一番好きな絵は、やはりあの羊飼の絵でした。はじめの絵では羊飼いはまだ自分の家にいて山羊の世話をしていました。次の絵では、その羊飼が自分の家を逃げ出して、とうとう豚の番人をしなければならなくなり、食べ物もろくに食べないものだから、だんだん痩せ衰えてゆきました。そこでは太陽の光さえもあまり明るくなくて、何もかもぼんやりとしていました。けれども、このお話には第三の絵がついていました。そこでは、年とったお父さまが、後悔してもどって来た子供を迎えようと、腕を広げてかけ出していました。子供はぼろぼろの服を着、すっかり疲れ切って、おずおずと歩いて来るのでした。それがハイジの一番好きなお話で、幾度も繰り返し繰り返し読みました。(第10章、147-148頁)

ハイジは、聖書物語に収められている「放蕩息子」の物語が好きになり、本がすりきれるまで、何度も読みます。
ハイジは、「放蕩息子」の主人公と自分を重ね合わせて、いつか必ずアルプスの家に帰り、おじいさんが腕を広げて自分を迎え入れてくれることを夢見ていたのでしょう。


家に帰りたい気持ちがつのるも、誰にも打ち明けられないハイジの苦しみを察して、ゼーゼマン夫人は「神さま」に「すっかりお話する」ことを教えます。
ハイジは、その助言に喜んで従い、「神さまに自分の悲しみをすっかりお話しして」、「おじいさんのところへかえしてください」と熱心に祈りました。
しばらくたつと、ゼーゼマン夫人は、また悲しい顔をしているハイジを呼び、お祈りをしているかどうか尋ねます。
ハイジが、「毎日毎日、同じことをお祈りしましたけれど」、「神さまは聞いてくださらない」ため、「お祈りはやめました」と答えると、ゼーゼマン夫人は次のように諭します。

神さまはわたしたちみんなのよいお父さまなのです。そして、わたしたちのためになることは何でもしっていらっしゃるのです。だから、わたしたちが、ためにならないことをお願いしたりすると、神さまは許してくださいませんよ。でも、わたしたちが逃げてしまわないで、一生懸命にお祈りして神さまを信じていたら、だんだんと良くなってくるものです。神さまは、あなたのお願いしていることは、今かなえてあげてはかえってあなたのためにならないと、お考えになったのです。(第11章、150-151頁)

ハイジは、「もう神さまを忘れたりしません」と後悔して、再び神に祈りを奉げるようになります。
ついにスイス帰国が許され、おじいさんの家へ向かって、山を登っていく途中で、ハイジは緑の斜面に輝く夕日に心打たれ、初めて神への感謝を知るのです。

ハイジはあたりの景色をじっと見つめていました。幸福の思いで胸がいっぱいになって、涙は頬をつたって流れ落ちました。ハイジはわれを忘れて手を組み合わせると、空にむかって大きい声で神さまにお祈りを捧げました。家にかえれた嬉しさ、そしてあたりの景色がもとの通りに美しいことを、大声で神さまに感謝しました。ハイジは、赤々とした輝きが衰えはじめるまで、とても立ち去ることができませんでした。(第13章、184頁)

祈り、懐疑し、また祈り、やがて心から神を信頼して、被造世界を肯定し、感謝するに至る。
ヨハンナ・シュピリは、ハイジが信仰を獲得する過程を、子どもの目線に立って、丁寧に描き出していると思います。

◆◆◆

家へ帰ったハイジは、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせます。
作品冒頭で語られた、おじいさんの半生と「放蕩息子」の物語は、ぴったり重なり、まだ小さなハイジがこの物語を自分のこととして読んだように、おじいさんも「放蕩息子」に自分の人生を重ねて聞き入ります。

「放蕩息子」の物語は、ルカ福音書15章11~32節に記された有名な例話です。
家を出た息子が、落ちぶれて家に戻ってくると、罰するのではなく、心から喜んで受け入れる父親の愛が、神の愛である、というメッセージでしょう。
「放蕩息子」を読み聞かせる前に、ハイジとおじいさんは次のようなやりとりをしていました。

「一度したことはもうそれっきりで、取り返しがつかないんだ。誰も神さまにもどってゆくことはできないんだよ。いったん神さまに忘れられたら、永久に忘れられてしまうんだ」
「ちがうわ、おじいさん。神さまのところへはもどってゆけるのよ。」(第14章、197頁)

ハイジから「放蕩息子」の物語を聞かされた夜、おじいさんは大粒の涙を流して、神に立ち返るのです。
おじいさんは、もともと裕福な生まれで、教育も受けているので、もちろん「放蕩息子」の物語を知っていたはずです。
しかし、ハイジが「放蕩息子」の物語を、素朴に、生き生きと語った時、おじいさんは初めて、これは<自分の物語>であると悟ったのでしょう。

翌朝、おじいさんはハイジを連れて、村の教会に行くことを決心します。
おじいさんが、ハイジとともに礼拝に参加して、牧師や村人たちから再び受け入れられる場面は、作品全体の中で一番感動的でした。
おじいさんは、神も村人たちも、自分を軽蔑して見捨てたとして、教会や村から離れて暮らしていましたが、本当は自分から神を、村人たちを軽蔑し、見捨て、離れていたのですね。

ハイジが読み聞かせた「放蕩息子」の物語中で、父親は帰って来た息子を抱きしめ、「息子が生きかえったんだ」とお祝いします。

『アルプスの少女ハイジ』は、少女ハイジの成長物語(=信仰獲得)であるとともに、ハイジの素朴な信仰心による、おじいさんの「生き返り」物語(=信仰への復帰、共同体への復帰)だと言えます。

◆◆◆

角川文庫版の『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳)は、第1章から第23章まで収められています。
実は、第1章「アルムおじさんの山小屋」から、第14章「日曜日の鐘」までが、『ハイジの修行と遍歴の時代』(Heidi's Lehr- und Wanderjahre , 1880年)として執筆・出版され、これだけで完結した独立の作品だったのです。
そして、第15章「旅行の準備」から、第23章「また逢う日まで」は、『ハイジは習ったことを役立てることができる』(Heidi kann brauchen, was es gelernt hat , 1881年)として、後から書かれた続編です。

『ハイジの修行と遍歴の時代』というタイトルは、ゲーテの2大長編小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』をもじったものです。
「修行」と「遍歴」の2つの時代を、一つの作品にまとめているのだから、ヨハンナ・シュピリにとって、『ハイジの修行と遍歴の時代』は完全な物語であり、もともと続編を書くつもりがなかったことは、明らかです。

現在では、第1部と第2部(続編)が1冊にまとめられていますが、おじいさんの社会復帰を描いた第14章「日曜の鐘」が、全体で最も盛り上がり、感動的に描かれていることも、本来はこの第14章で物語が完結していたことを知ると、大変納得ですね~。

ヨハンナ・シュピリは、第1部において、「修行と遍歴の時代」を経て、内面的成長を遂げたハイジに、おじいさんの社会復帰を導く役割を与えました。
続編を求める読者の手紙や、出版社の要望に応えて執筆した第2部(続編)では、持ち前の利発さと愛情深さ、素朴な信仰心によって、ハイジはさらに多くの人びとを幸福に導くのです。
讃美歌を歌って、ペーターのおばあさんの心を慰め、娘を失って悲しむ医者の心を慰め、クララの治癒を助けます。

そして、社会復帰を果たしたおじいさんは、第2部(続編)では経験豊かで、思慮深い人物に変わり、ハイジとともに人びとを幸福に導く役割が与えられています。
ゼーゼマン夫人から信頼され、戦地での看護経験を活かしてクララの治癒を助け、フランクフルトからアルプスに移住した医者と素晴らしい友情を築くのです。
ハイジの助力で立ち直った医者は、ハイジを養女に迎えることを希望し、おじいさんが心から医者に感謝し、ハイジの将来を託して、堅い握手を交わし、物語は終わります。

◆◆◆

アニメ「アルプスの少女ハイジ」では、ハイジの信仰獲得と、おじいさんの社会復帰という最重要テーマが、省かれています。

アニメでは、おじいさんが教会や村から離れて暮らしている理由が明らかにされず、ただ村人から恐れられ、嫌われているているだけです。
ハイジは、ゼーゼマン夫人から信仰を教えられることがなく、聖書物語もプレゼントされないので、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせるエピソードも無く、二人で教会に行く場面も無いのです。
ハイジが読み書きを覚えたことを知り、冬の間は山を降りて、学校に行かせる決心をしますが、最後まで共同体との和解は描かれません。

フランクフルトの医者が、翌年にアルプスを訪れますが、娘を失ったという重要設定が省かれているので、ハイジに慰められる必要はなく、最後にスイスに移住することもなく、ハイジを養女にする結末もないのです。

ペーターが、クララや医者に嫉妬して、不機嫌になり、医者を威嚇したり、クララの車いすを落として壊すエピソードも省かれ、最初から最後までクララに親切で、協力的です。
ペーターの弱さや情けなさが描かれるからこそ、ハイジの善良さ、やさしさが際立つのですが、アニメではペーターも善良でやさしい人物として描かれています。

ロッテンマイヤー女史は、クララのアルプス旅行に同行しないのですが、アニメではクララを連れてアルプスを訪れ、泥だらけになって山を登り、動物に悲鳴を上げて気絶したりします。
しつけに厳しいロッテンマイヤー女史の悪いイメージを打ち消し、本当は善良な人物であると演出するために、アニメ後半では愉快で滑稽な姿で描かれているのでしょう。

このようにアニメでは、原作の重要なエピソードをかなり省くとともに、エピソード改変による不自然さや不足分を補う創作エピソードを非常に多く加えています。
結果として、ハイジの利発さや愛情深さ、素朴な信仰心という美点が薄れてしまったように思います。
アニメのハイジは明るく元気なことだけが取り柄で、思慮の浅さや、分別の無さが悪目立ちし、自分勝手で聞きわけの無いわがままな子ども、という印象です。

原作からは、わたしたちは神を信頼し、祈り、感謝することによって、困難に耐え、乗り越えることが出来る。たとえ神を忘れ、離れてしまったとしても、わたしたちは神に立ち返ることが出来るし、神はいつでも赦し、受け入れてくださる、というヨハンナ・シュピリのメッセージが伝わってきます。
アニメは、神への信仰というテーマを全くなくしたことによって、シュピリの意図からはずれているばかりか、最終的な結末すら変わっていますね。

これほど原作のエピソードを省き、創作エピソードを盛り込むなら、いっそ完全オリジナルアニメした方が良かったのでは、とすら思いました。



読了日:2012年8月17日