2013/09/05

太宰治「斜陽」

斜陽 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/4/30

太宰治の『斜陽』を読みました。
『斜陽』は、1946年~1947年(昭和21年~22年)の日本を舞台に、華族階級の一家を描いた物語です。
一家の当主である父親はすでに亡くなっており、老いた母親、長女かず子、かず子の弟で長男の直治が登場します。
第二次大戦後、直治は南方の戦地から帰らず、母親とかず子は、叔父のすすめで東京・西片町の家を売り、伊豆の山荘に引っ越して、二人だけでひっそりと暮らし始めます。
思い出の家を離れる辛さからか、母親は引っ越してまもなく病に伏せ、かず子は病気がちな母親を気遣い、慣れない家事に取り組みます。
伊豆での新生活がようやく落ち着いた頃、消息不明だった直治が帰ってくるのです。


『斜陽』が構想された1945年~1947年(昭和20年~22年)頃は、財産調査および財産税法が執行され、新憲法の公布による華族制度の廃止が決定しました。
華族と同様に、皇族についても環境が大きく変化し、皇室典範改正にともなう臣籍降下(皇族離脱)や、皇族財産への財産税公布などが議論されます。
『斜陽』が執筆・連載された1947年(昭和22年)には、議論の末に11宮家の臣籍降下が決定し、51名が皇族籍を離脱しました。
当時の一般国民にとって、宮家の人々は、現在のスターやアイドルに近い存在であり、その一挙手一投足が注目されていたと言われています。

太宰治が1948年(昭和23年)6月に亡くなった後、同年7月に高木正得元子爵の失踪・自殺事件が起こります。
高木元子爵の遺書には、敗戦後の変革によって経済破綻に陥り、死を選ぶこととなった内容が記されており、「没落する華族階級」が世間の話題となります。
高木元子爵の事件を発端に、新聞や雑誌は旧華族階級の動向を特集し、名家の没落を彷彿とさせる事件をさかんと報道するようになります。
1948年(昭和23年)7月に、『斜陽』新版が刊行されると、没落華族の物語として、人々に熱狂的に受け入れられるのです。
実在の旧華族の没落と、小説『斜陽』が結び付けられ、「斜陽」という単語は、華族の没落を意味する言葉として用いられ、「斜陽族」という流行語まで生まれました。

このように、太宰治が『斜陽』を構想・執筆した時期は、華族よりも皇族の動向が注目されており、華族の没落が世間を騒がせ、『斜陽』がベストセラーとなったのは、太宰治の死後のことでした。
『斜陽』は、華族階級の没落を予見した作品であり、いち早く特権階級の没落というテーマを描いた、太宰治の先見性が垣間見えますね。


※ネタバレ注意※


直治の帰還をきっかけに、かず子は6年前に起こった「ひめごと」を思い起こします。
6年前、直治は麻薬中毒が原因の借金に苦しんでおり、山木へ嫁いだばかりのかず子は、自分のドレスやアクセサリーを売って、なんとか弟のためにお金を工面していました。
直治の頼みで、かず子は小説家の上原二郎宅にお金を届けていましたが、次第に多額のお金をねだられ、たまらなく心配になって、かず子はたった一人で上原に会いに行きました。
かず子は上原と一緒にコップで2杯のお酒を飲み、別れ際に上原からキスをされます。
この時から、かず子には「ひめごと」が出来ました。
その後、かず子は山木と離婚し、実家に帰って、山木の子を死産しました。

かず子は、6年前の「ひめごと」を思い起こして、上原に三つの手紙を送ります。
手紙の中で、かず子は上原に対する愛情を伝え、上原の子を熱烈に望みました。
夏に送った手紙に対する返事が無いまま、季節は秋になり、病気がちだった母がついに亡くなります。
母の死後、かず子は東京で上原と再会し、恋を成就させます。
かず子と上原が一夜をともにした朝、直治は伊豆の山荘で自殺していたのです。
直治の死後、上原の子を身ごもったかず子は、上原に最後の手紙を送りました。
手紙の中で、かず子は私生児とその母として、古い道徳とどこまでも闘い、太陽のように生きることを決意して、物語は終わります。



物語全体は、「私」=かず子の一人称の語りで進行しますが、第3章に直治の手記「夕顔日誌」、第7章に直治の「遺書」が挿入され、第4章と第8章にかず子の「手紙」が挿入されており、なかなか凝った構成だと思います。
上の図は、物語の構成を整理したもので、かず子が語った過去と現在の出来事を、時系列にまとめてみました。
断片的に語られる過去のエピソードから、かず子という女性の人生が少しずつ明らかになるところが、面白いですね。

かず子の視点だけでなく、「夕顔日誌」や「遺書」を通じて、直治の視点も描かれており、かず子の人生により立体感・奥行きが感じられます。
かず子の視点と、直治の視点で大きく異なるのが、上原二郎の人物評価です。

六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。(第1の手紙、第4章、99-100頁)

私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に沁み込んでいたのです。(第2の手紙、第4章、107頁)

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。(第3の手紙、第4章、114頁)

直治は「遺書」の中で、自分が恋する女性と、その夫について「遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいに」書きます。
洋画家とその妻として語られている人物が、上原夫妻を指すことは明らかでしょう。

そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮らしているのです。(遺書、第7章、190頁)

僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。(遺書、第7章、193頁)

つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。(遺書、第7章、195頁)

かず子の「手紙」からは、かず子が6年前の「ひめごと」を何度も思い出し、彼の著書や弟との会話から、上原の人物像を想像し、偶像化していく様子が読みとれます。
一方、直治の「遺書」は、かず子の上原像に対する、強烈な偶像破壊の効果を発揮しています。
かず子の視点とともに、直治の視点が描かれることによって、かず子の物語を、直治の視点から読み直すことが出来るのです。

◆◆◆

主人公かず子と、かず子の母親は、華族という出自は同じでも、全く対照的な人物として造形されています。

かず子の「お母さま」は、無心で可愛らしく、「ほんものの貴婦人の最後のひとり」として描かれています。
「お母さま」は、「お金の事は子供よりも、もっと何もわからない」女性で、10年前に夫を失くしているため、かず子が「和田の叔父さま」と呼ぶ、実弟に財産の管理をまかせていました。
「和田の叔父さま」の勧めで、東京・西片町の家を売り、使用人に暇を出し、伊豆へ引っ越すことを決め、「かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ」と言うなど、主体性のない女性として描かれています。
かず子が、「お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさ」と言うように、「お母さま」の主体性のなさは、「信頼」という言葉で置き換えられ、彼女の「幼い童女のよう」な無心さ、美しさを強調しています。

しかし「お母さま」は、本心では、伊豆へ引っ越すことに全く不本意であり、西片町の家に一日でも長く暮らしたいと思っていました。
そのため、引越しの荷ごしらえが始まっても、「お母さま」は整理の手伝いも指図もせず、毎日部屋でぐずぐずするばかりで、引越し前夜には激しく泣き、伊豆へ到着した当日から、高熱に苦しみます。
その後、「お母さま」はたびたび病に伏せるようになり、食欲もなく、口数もめっきり少なく、伊豆へ引越してわずか1年以内に、亡くなりました。
伊豆における「お母さま」の「病気」は、西片町の家を売り、伊豆へ移住したことへの辛さや不満、抗議の気持ちを全身で表現していたのだと思います。

西片町の家から離れることが、死ぬほど苦しいのなら、「お母さま」はどうして「和田の叔父さま」の勧めに従ったのでしょうか?
「和田の叔父さま」から、かず子を再婚させるか、宮家へ奉公にあがるようにと勧められますが、かず子は思いきり泣いて、叔父の提案を拒絶します。
「お母さま」は、かず子の気持ちを思いやって、「私の子供たちの事は、私におまかせ下さい」と手紙を書き、「生まれてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた」と言うのです。
女性は夫と親に仕えよ、従順で貞節であれ、という「女大学」の立場から教育され、「ほんものの貴婦人」として生きてきた「お母さま」にとって、不満や抗議の気持ちを言葉にすることは、現代のわたしたちには想像できないほど、大きなこと、難しいことだったのでしょう。



落ちぶれても生活感の無い「お母さま」に対し、娘のかず子は、戦時中に徴用されて「ヨイトマケ」の肉体労働を経験し、伊豆では使用人のように家事をこなし、「地下足袋」姿で畑仕事にまで取り組みます。
かず子は、華族の出自でありながら、だんだん「粗野な下品な女」、「野性の田舎娘」になっていくと自覚し、華族性(貴族性)を解体していくのです。

けれども、私は生きて行かなければならないのだ、子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。(第5章、149頁)

かず子は、「女大学」にそむいて、妻子ある上原と関係を持ち、上原の子を身ごもります。
上原の妻に恋していながら、最後まで思いをとげることが出来ずに、自殺した直治と比べて、最終章のかず子は「ひとすじの恋の冒険」を成就させ、「よい子を得たという満足」があり、「幸福」です。
しかし、かず子と「私生児」として生まれる子供の未来は、きわめて困難だろうと容易に予想できますよね。
かず子は、自分が「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています」と言い、困難な未来を見据えて、すでに覚悟を決めているように見えます。
その覚悟があるからこそ、かず子の胸のうちは「森の中の沼のように静か」であり、「孤独の微笑」の境地に至っているのだと思います。

けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。(第8章、202頁)

私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(第8章、202頁)

発表当時の読者にとって、かず子は主体的で、進歩的な女性像、自立する女性像として、賛否両論だったと思います。
現代の日本では、2010年度の総務省統計局調べによると、108万人強のシングルマザー人口があり、そのうち未婚のシングルマザーは12%程度で、13.2万人と言われています。
家族観が多様化した現代のわたしたちにとって、離婚や死産を経験して、未婚のシングルマザーになるという女性像は、新鮮さや衝撃は薄く、とても身近な存在として感じます。

『斜陽』には、「ほんものの貴婦人」である「お母さま」や、デカダン生活をする直治や上原、「地味な髪型」で「貧しい服装」でも清潔感があり、「高貴」なほど「正しい愛情のひと」である上原の妻など、生活感の無い、浮世離れした登場人物が多いです。
かず子だけは、生活が逼迫しても、「地下足袋」姿で「ヨイトマケ」までする<強さ>や<たくましさ>があり、「血の匂い」がするような、生き生きとした人物として感じられますね。


2013年9月4日に、結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を、結婚した夫婦の子の2分の1とした民法の規定について、最高裁大法廷が「法の下の平等」を保障した憲法に違反する、という決定を出しました。
最高裁は1995年に、民法のこの規定を「合憲」と判断しており、「合憲」判断を覆しての、歴史的な「違憲」判断です。
婚外子の相続格差の規定は明治時代に設けられ、戦後の民法に受け継がれたもので、婚外子に対する差別を助長してきたと言われています。
この「違憲」判断をきっかけに、『斜陽』発表から66年経った現在でも、かず子の言う「道徳革命」は未だ完成されておらず、まだまだ「革命」の途上であることを気づかされました。
「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きる」というかず子の力強いメッセージは、これからも多くの女性たちを励まし、勇気づけることでしょう。

◆◆◆

『斜陽』では、<蛇>のモチーフが何度も登場します。
かず子の父親が亡くなる直前に、枕元に蛇があらわれ、父親が亡くなった当日には、庭の木という木すべてに蛇がまきついていました。
臨終の枕元の蛇は、かず子のほか、母親と「和田の叔父さま」も目撃しています。
庭木の蛇は、かず子しか目撃がおらず、現実には起こりそうもない、幻想的な光景なので、かず子の幻視かもしれません。

伊豆へ引越してから、庭の垣の竹藪に蛇の卵を見つけ、かず子は蝮の卵だと勘違いして、たき火で卵を燃やします。
どうしても卵は燃えず、かず子は卵を庭に埋葬して墓標を作りました。
その後、庭に何度か蛇があらわれるようになり、かず子と母親は、卵の母親である女蛇だと考えます。
かず子は、自分の胸の中に「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」が住んでいるように感じ、「お母さま」を「悲しみが深くて美しい美しい母蛇」に重ね合わせて、かず子=蝮が、「お母さま」=美しい母蛇をいつか食い殺してしまうと感じます。

「卵を焼かれた女蛇」には、第一に、子供を死産したかず子自身が投影されています。
かず子は、「卵を焼かれた女蛇」と<子の喪失>感を共有していますが、かず子は卵の殺害者でもあり、死産=<子殺し>のイメージがあるのかもしれません。
かず子が、「卵を焼かれた女蛇」を「お母さま」に重ね合わせるのは、「お母さま」と<子の喪失>感を共有していたからでしょう。
蛇の卵を燃やす事件は、直治の帰還前の出来事です。
直治は、南方の戦地で消息不明になり、終戦後も帰還しなかったため、「お母さま」は「もう直治には逢えない」と覚悟しつつも、たびたび直治を思い出し、悲しみを深くしていました。
そのため、「物憂げ」な「美しい母蛇」と「お母さま」を重ね合わせたのだと思います。


『斜陽』の構成は、現在と過去の出来事が時系列順ではなく、順序バラバラに配置されています。
一見無造作に並べられているようですが、かず子が現在のある出来事から連想して、過去のある出来事を思い出すという形式であり、実は現在と過去の出来事は密接に結びついているのです。

伊豆の家で、朝食にスープを一さじ飲んだ時に、「あ」と小さな声を出します。
「あ」と言う時、母親は戦死したであろう息子を思い出しており、かず子は6年前の離婚を思い浮かべています。
この朝食の出来事から、<子の喪失>というイメージが連想され、かず子は数日前の蛇の卵を焼く事件を回想していくのです。
<蛇>から連想して、10年前の父親の臨終にあたって、枕元に蛇があらわれ、庭木に蛇がからみついていたことを回想します。
そして<喪失>のイメージは、日本の敗戦によって東京・西片町の家を売り、家財を売り、伊豆へ移住する出来事の回想へとつながっていきます。
再び現在の朝食の出来事にもどり、かず子は「私の過去の傷痕」がちっともなおっていないと実感し、自分の内面に「蝮」を宿す方向へ進んでいくのです。
朝食の出来事から数日後(蛇の卵の出来事から約10日後)に、火の不始末から、小火騒ぎが起こります。
小火騒ぎによって、かず子は自分の内面に「意地悪の蝮」が住み、「野生の田舎娘」になって行くという気持ちを強くし、畑仕事に精を出すようになります。
およそ貴族らしからぬ、肉体労働に汗を流すイメージは、かず子が戦時中に徴用され、「ヨイトマケ」までさせられた回想につながり、「畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女」という自覚に至ります。


<喪失>の象徴としての「美しい母蛇」を母親と同化させ、自分は「蝮」のような「醜い蛇」と設定することにより、かず子は<生命力>の象徴としての「蛇」を内面化していきます。
毒をもたない「美しい蛇」よりも、毒をもつ「蝮」には、より<強さ>や<たくましさ>があります。
「蛇」は、脱皮をすることから<死と再生>のイメージがあり、豊穣神・地母神の象徴とされ、日本を含め、世界各地で古くから崇められてきました。
かず子は、敗戦による貴族階級の<死>、離婚と死産という「過去の傷痕」から<再生>し、生きることの「醜さ」や「きたなさ」を受け入れて、生命力あふれる「蝮」=「野生の田舎娘」へと変身していくのだと思います。


その後、かず子は「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という新約聖書の言葉を引用して、上原に第1の手紙を書きます。
上原に対する「恋」は、「非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪」であると、かず子は自覚しており、第1の手紙は「蛇のような奸策」に満ち満ちていたと書いています。
母親の死後、かず子は「蛇のごとく慧く」、直治を伊豆に残して、上原に会うために東京に行きます。
上原に対する「恋」において、かず子は聖書の「蛇」のイメージを繰り返し用いています。

旧約聖書『創世記』では、「主なる神が造られた野の生きもののうちで、最も賢いのは蛇」であり、「蛇」の<誘惑>に負けて、アダムとエバは主なる神にそむいて「善悪を知る者」となり、「エデンの園」から追放されました。
かず子が引用した「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という言葉は、『マタイによる福音書』10章16節に記されています。
『マタイによる福音書』10章は、「天の国は近づいた」とイスラエルの人々に宣べ伝えるため、弟子たちを派遣するにあたり、イエスが弟子たちに心構えを語っています。
「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、金貨や銀貨などの対価を受け取らず、「平和があるように」と願うことが語られています。
「迫害」があることもあらかじめ予告され、捕えられ、鞭打たれ、憎まれることが予告されますが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になり」、むやみに殉教せず、一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げること、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ことが語られています。

かず子は19歳までイギリス人の女教師のもとで学んでいたせいか、たびたび聖書の言葉を利用しています。
貴族として<死>に、民衆として<再生>することを、「イエスさまのような復活」と表現しています。
母親の死後、かず子は上原への「恋」をしとげるため、「古い道徳」に対して「戦闘、開始」を宣言し、『マタイによる福音書』10章から引用して、「恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守る」と誓います。
最後に、上原の子を身ごもったかず子は、自分を「マリヤ」になぞらえて、「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になる」とまで語るのです。


かず子は、自然の生命力にあふれる「蝮」を内在化し、毒をもったずる賢い「蝮」として、上原を<誘惑>していきます。
このように、『斜陽』において<蛇>はきわめて重要なモチーフであり、<蛇>のイメージの内面化によって、かず子の内面の変化を描いています。
かず子が<蛇>化する過程において、太古からの<蛇=豊穣神・地母神>のイメージと、聖書における<蛇=賢い誘惑者>のイメージが、絶妙にミックスされており、読めば読むほど面白く感じました。



読了日:2012年11月27日