2018/05/28

藤木稟「バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘」

バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘
  • 発売元: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/4/11

藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』(KADOKAWA、2018年)を読みました。
「バチカン奇跡調査官」は、ローマ教皇庁の列聖省に所属する二人の主人公、平賀・ヨゼフ・庚とロベルト・ニコラスが、世界中のさまざまな「奇跡」申請を調査し、本当に神の奇跡なのか、自然現象なのか、人の手による偽奇跡なのかを解き明かしていく物語です。
2018年5月現在、長編14巻、短編集3巻が刊行されており、アニメ化、漫画化も行われている人気作品です。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中で、「奇跡」と「信仰」をテーマとした作品としては、短編集2巻に収録されている『シンフォニア 天使の囁き』が、わたしの最も好きな作品です。

この『ジェヴォーダンの鐘』は、2018年4月に刊行された、シリーズ最新作です。
本作では、聖母崇敬の篤いフランスの山村を舞台に、舌の無い鐘が鳴り、青い鳥が聖歌を歌い、全盲の少女の目が癒された「奇跡」が起こります。
少女が突然全盲になった不幸な事件と、その目が癒された出来事を通して、「奇跡」とは何か、を深く考えさせられました。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中でも、本作は「奇跡の意味」を描いた作品として、非常に良作であり、とても感動しました。

【目次】
1.奇跡物語の意味 ←ネタバレ注意
2.カタリ派の思想と女性聖者崇拝 ←ネタバレのない考察
(1)カタリ派の思想的起源とは?
(2)カタリ派の二元論
(3)聖マドレーヌ信仰の流行
(4)女性聖者崇拝の急速な拡大と発展
最後に

1.奇跡物語の意味


『ジェヴォーダンの鐘』は、フランスのロゼール県にある小村、セレ村を舞台としています。
物語の舞台であるセレ村は、村人が山の洞穴で聖母マリアを見たという古い伝承があり、聖母が出現した山の洞穴に、礼拝堂が建てられ、聖母像が祀られています。
セレ村は架空の地名だと思いますが、巡礼地ル・ピュイ=アン=ヴレと司教都市マンドの間、かつてのジェヴォーダン伯領内に位置する設定です。

セレ村へ向かう主人公たちが、ル・ピュイ=アン=ヴレを通って、二つの奇岩と、その上に建てられた聖母子像と礼拝堂を目にしますが、これは実在する史跡です。
ル・ピュイ=アン=ヴレには、コルネイユ岩山とサン・ミッシェル岩山という二つの奇岩が聳え、その上にサン・ミシェル=デギュイユ礼拝堂、ノートルダム・ド・フランスの像が建てられています。
フランスからスペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の一つとして、「ル・ピュイの道」があり、中世にル・ピュイは巡礼路の拠点として大きく栄えました。
ル・ピュイの大聖堂には、「熱病の石」と呼ばれるドルメン(岩)の一部があります。
ガリア・ローマ時代、この石の上に聖母マリアが出現し、病に苦しむ女性が治癒したという「奇跡」が伝承されています。
かつては、毎年多くの巡礼者が訪れ、この石の上に寝転び、病の治癒を熱心に祈願したことでしょう。

物語にあるセレ村の聖母出現に近いと思われるのが、「ラ・サレットの聖母」(1846年)です。
1846年に、フランスのイゼール県、アルプスの高地で、二人の羊飼いの子供たちが「美しい女性」と遭遇します。
グルノーブル司教によって認定された、聖母出現の聖地ラ・サレットは、標高1800メートルという大自然の中にあります。
物語で描かれているような「聖母出現の奇跡」は、実際に世界中で数多く記録されており、ローマ教皇庁は24の出現地を公認しています。
上述した「ル・ピュイの聖母」(西暦70年と西暦221年)、「ラ・サレットの聖母」も公認されています。


物語において、セレ村は毎年4月末を聖母出現の祝日とし、聖母出現の地である山の礼拝堂で、特別な夜礼拝を行います。
山の礼拝堂には舌の無い鐘があり、「この鐘が鳴ると奇跡が起こる」という言い伝えがありました。
そのため、神父と村の聖歌隊に同行して、病や悩みに苦しむ村人たちが山の礼拝堂に参拝し、聖母子像に祈願しました。
その年、山の礼拝堂を訪れたのは、全盲の少女ファンターヌとその母親です。
ファンターヌと母親が、目の治癒を願って祈りを捧げている時、礼拝堂は眩い光に包まれ、舌の無い鐘が鳴ったのです。
伝説の鐘が鳴った奇跡に感動し、聖歌隊が聖母を賛美する聖歌を歌っていると、聖母子像に美しい青い鳥が舞い降りました。
青い鳥は、聖歌を口ずさみ、「人の子よ、今この時、貴方がたの罪の全てが贖われました」と告げます。
セレ村では、青い鳥は聖母の化身である、と伝えられてきたため、目撃者たちは聖母が福音を告げた、と確信します。
そして、全盲の少女ファンターヌの目が癒される奇跡が起こったのです。

※ネタバレ注意※

このセレ村で起こった奇跡譚は、次の三つの現象に分けられます。

①夜であるのに光に包まれ、舌の無い鐘が鳴る
②青い鳥が聖歌を歌い、福音を告げる
③ファンターヌの目が治癒する

主人公の平賀とロベルトは、この奇跡を調査するため、セレ村を訪れます。
科学者である平賀は、山の礼拝堂と舌の無い鐘、聖母子像、礼拝堂周辺の森などを自分で歩いて観察し、舌の無い鐘を鳴らす実験を行うなど、科学的な手法で上記①と②を解き明かします。
一方、古文書学者であり、語学堪能なロベルト・ニコラスは、奇跡の当事者であるファンターヌや、目撃者である神父や聖歌隊員たちから聞き取り調査し、上記③について明らかにするのです。

ファンターヌを診察した病院の診断書や聞き取り調査から、ファンターヌが生まれつきの視覚障碍者ではなく、この奇跡の三年前に、何らかの原因で失明したことが分かります。
ロベルトは、ファンターヌの失明の原因に注目し、三年前にセレ村で起こった事件を調査します。
ファンターヌの失明の原因が明らかになれば、視力が回復した奇跡を解き明かすことにつながります。

三年前、当時12歳のファンターヌを襲った突然の失明は、本人や家族にとって、原因不明の出来事でした。
同じ時期、同じ村の青年で、当時19歳のマティアスが山のふもとの森へ行ったきり、行方不明となっていました。
マティアスと同行して森へ行った、村の青年ブライアンは、マティアスと別れた後、森の中でぐったりしているファンターヌを保護します。
ブライアンに保護され、帰宅したファンターヌは、失明していました。
その後、村人たちが森の中を捜索しますが、マティアスは発見されませんでした。

実はブライアンは、マティアスが失踪した原因に心当たりがありましたが、警察にも家族にも言わずにいました。
しかし、バチカンから訪れた神父であるロベルトに、ブライアンは心を開き、失踪事件について重要な証言をします。
ブライアンの証言では、事件当日、ファンターヌは森の中を一人で散策しており、マティアスはそのファンターヌを暴行する目的で、追いかけていたのです。
ブライアンの証言を聞いて、ロベルトは平賀とともに、マティアスが失踪した事件の現場に行きます。
事件の手がかりを探して、森の中を捜索していた二人は、偶然にも洞窟の中でマティアスの遺体を発見します。
マティアスの遺体は埋葬途中であり、その遺体の近くに、5歳児程度の子供の遺体が横たわっていました。
二人の遺体は白骨化しており、死後数年経過しています。

ファンターヌは幼い頃、森の中で迷子になり、優しい精霊に助けられ、精霊と友人になりました。
ファンターヌは森の精霊をベートと呼び、一緒に遊びましたが、出会って数年経ち、彼女が成長しても、ベートは出会った頃と同じ身長のままでした。
村の子供たちは、ファンターヌをからかったり、いじめたりしますが、精霊ベートは小さくても大人びていて、彼女にとても優しく接してくれます。
ファンターヌはそんな精霊ベートを大好きでしたが、目が治癒して、再び森を訪れた彼女の前に、ベートは現れませんでした。

ロベルトは、ファンターヌが語ってくれた、ベートとのおとぎ話のような思い出を思い起こして、洞窟内で発見した子供の遺体はベートであると確信します。
ベートの正体は、山の所有者である大地主シュヴィニ家の長男アンドレで、先天的な成長ホルモン分泌不全の障碍を持っていました。
ファンターヌが森の中でベート、すなわちアンドレと初めて出会ったのは、彼が15歳の時でした。
アンドレは5歳児のような外見でしたが、内面は年齢にふさわしく成長していたため、ファンターヌは彼に心惹かれたのでしょう。
事件当時、ファンターヌは12歳、アンドレは18歳でした。
シュヴィニ家では、三年前からアンドレが行方不明になっていたのです。

平賀は、マティアスの遺体の傷と、アンドレの遺体の状況から、三年前の事件の真相を次のように推測します。
アンドレと会うため、森の中を歩いていたファンターヌは、マティアスに襲われます。
ファンターヌは必死に抵抗し、マティアスは打ち所が悪く、死んでしまった。
待ち合わせ場所に現れたアンドレは、パニック状態の彼女を慰め、髪や服の乱れを整え、全てを忘れるように言い聞かせたことでしょう。
アンドレは、森の中の洞窟に遺体を隠し、事件の発覚を防ぎました。
しかし、マティアスの遺体を運んだことで、アンドレの身体に重い負担がかかり、寝たきりとなります。
アンドレは病床で、ファンターヌが事件後に失明したことを知りました。

ファンターヌは、極度のストレスによって心因性視覚障碍を発症し、事件前後の記憶を失ったのです。
暴行被害を受けた強い恐怖、事故であっても人を殺めてしまった罪の意識、そしてファンターヌが心から慕っていた大切な人に、自分の醜く穢れた姿を見られてしまった、という思いが、彼女をもっとも苦しめ、絶望させたのでしょう。
ストレスにより、身体のどこかに症状が生じる心身症は、ストレス性の胃潰瘍がよく知られていますが、視覚や聴覚など感覚器官に症状があらわれる場合もあります。
心因性視力障碍は、眼球自体には悪い所が無いにもかかわらず、視力が低下し、メガネをかけても視力が矯正されません。
心因性視力障碍を治すためには、ストレスの原因を取り除くことが重要だと言われています。

アンドレは、ファンターヌの心を慰めるため、自分の飼っていた鳥に聖歌と「赦しの言葉」を覚えさせました。
事件から一か月後、アンドレは病床を抜け出し、洞窟内でマティアスの遺体をひそかに埋葬しようとしましたが、疲労骨折と生まれつきの内臓疾患が重なり、埋める過程で命を落としてしまったのです。


平賀の科学調査の結果、セレ村の奇跡①「夜であるのに光に包まれ、舌の無い鐘が鳴る」現象は、小さな隕石の落下によるものであると説明されました。
その夜、礼拝堂を包んだ眩い光は隕石であり、落下の衝撃波によって、舌の無い鐘が鳴ったのです。
そして、ファンターヌが失明した原因、すなわちマティアス失踪事件の真相が明らかになったことにより、奇跡②と③が解き明かされました。
村人たちが聖母マリアの化身と思った美しい青い鳥は、アンドレが育てたオナガであり、その夜偶然にも、山の礼拝堂に飛来し、アンドレが教えた通りに歌を歌い、赦しの言葉を告げました。
これによって、アンドレの生前の願い通り、ファンターヌの目は癒されたのです。

「聖歌をうまく歌った時、坊ちゃまがシブリアンを一層可愛がっていたのを覚えていたのでしょう。
ああ、いつか坊ちゃまとの約束を果たし、ファンターヌ嬢にこの歌声を聞かせてあげられれば良いのですが...。
それが今の私にとって、たった一つの望みです。
坊ちゃまを一人で逝かせてしまった、私の罪の償いとして...。」
エマーヌは悲しげに俯いた。
「エマーヌさん、春祭りの奇跡をご存知ないのですか?」
ロベルトが訊ねる。
「何でしょうか、それは?」
エマーヌは不思議そうに問い返した。
「アンドレさんと貴方の願いは既に叶っていたのです。奇跡は起こったんですよ」
平賀は厳かな声で答えた。(藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』、410-411頁)

物語において、このようにセレ村で起こった「奇跡」が解き明かされましたが、この奇跡譚を「奇跡」と受け取るか、「偶然」と受け取るかは、当事者や目撃者たちの心しだいです。
超常現象のように思われても、この物質的世界で起こるわけですから、人の手が介在した人工的現象か、発生確率が非常に低い自然現象として、必ず説明できるのかもしれません。

ファンターヌが山の礼拝堂に参拝した夜に、隕石が落下する確率はどれくらいでしょうか?
逃げ出した青い鳥が、礼拝堂に飛来し、ファンターヌの前で言葉を告げる確率は?
偶然に偶然が重なって起こった、非常に珍しい自然現象であると考えることが出来ますし、その偶然には何らかの「意志」ある、神の見えざる手が働いていると考えることも出来るでしょう。
この自然現象の中に、「神の業」があると感じたからこそ、ファンターヌの目は治癒したと言えます。


新約聖書では、イエスがガリラヤ中を回って、いろいろな病気や苦しみに悩む者たちを癒された出来事が記されています。
癒された人々の中には、てんかんの者、中風の者、重い皮膚病患者、悪霊に取りつかれた者、婦人病の女性、口の利けない者、そして盲人もいます。
マタイによる福音書には、二人の盲人を癒したことが記されています。

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。(マタイによる福音書、9章27-31節、新共同訳)

二人の盲人たちは、イエスを「主」と信じて、自分からイエスのみもとに近づいたからこそ、癒しの恵みにあずかり、彼らの信仰のとおりになったのです。
イエスによって癒された人々は、どれほど心が慰められたことでしょうか。

中世ヨーロッパでは、キリスト教公認以降、信徒が急増し、数多くの奇跡譚が記録されるようになります。
4世紀末から5世紀初めにかけては、聖者や聖遺物への崇敬が急速に拡大した時期でもあります。
この時代の奇跡譚は、病気治癒が最も多く、蘇生、悪霊憑きの治癒、示現、天災除け、捕囚解放などがあります。
このような奇跡譚は、科学や医療が進歩した現代から見ると、くだらないと思えるかもしれませんが、当時の人々が何に一番苦しみ、何を一番求めたか、奇跡譚を通して知ることが出来るのです。

J.ポールは、奇跡譚について「事実かどうかは問題ではない。体験者が信じていたことが問題」(『西欧の教会と文化』1986年)であると論じています。
わたしたちが今、「マタイによる福音書」における、二人の盲人たちの奇跡譚を読むとき、彼らの目は先天的な視覚障碍だったのか、白内障や緑内障などの眼病で失明したのか、あるいは心身症だったのかは誰にも分かりません。
この二人の目が本当に治癒したのかどうか、事実の真正を確かめることは不可能です。
しかし、当事者である二人の盲人たちが、「目が見えるようになった」と感じていたことは、福音書に記録されているとおりです。
したがって奇跡譚とは、当事者(奇跡体験者)の信仰を証しするものであると、わたしは考えます。



2.カタリ派の思想と女性聖者崇拝


『ジェヴォーダンの鐘』では、中世ヨーロッパ最大の異端と呼ばれたカタリ派について、大きく取り上げています。
物語に描かれたセレ村は、かつてのラングドック州のジェヴォーダン伯領内に位置する設定です。
「ジェヴォーダン」という地名は、作品の表題にも用いられており、この土地の文化や歴史に対する作者のこだわりが感じられます。

南フランスのラングドック地方は、ロマンス語の一つであるオック語を話す地域のことです。
オック語を用いる人々が住む地域は、オクシタニアと呼ばれており、現在のフランス南部からイタリア、スペインの一部が含まれます。
オクシタニア、すなわちオック地方では、12世紀からカタリ派教会が勢力を広げましたが、ローマ教会はカタリ派を異端として危険視し、カタリ派を殲滅するために、アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)を起こしました。
アルビジョワ十字軍は、宗教紛争ではなく、オック地方に対する侵略戦争と言うべきものであり、十字軍が勝利した結果、オック地方は、カペー朝フランス王国に併合されました。
ローマ教会が起こしたアルビジョワ十字軍は、フランス王国の南北統一と言う、極めて重大な政治的変化をもたらしたのです。
十字軍に続く異端審問によって、オック地方のカタリ派教徒たちは迫害と消滅の歴史を辿り、最後の一人まで根絶やしにされました。

物語の中では、セレ村はかつてカタリ派信仰が盛んであり、平賀とロベルトが山の洞窟内に残されたカタリ派の痕跡を発見する出来事が描かれています。
南フランスのカタリ派教会は「アルビ派」とも呼ばれており、物語の中では「アルビ派」という呼び名で統一し、記載されています。

「この洞窟を神殿として使っていたのは、キリスト教最大の異端と呼ばれ、中世南フランスを席巻したアルビ派に間違いない。
アルビ派の教えでは、キリストは肉体を持っていない。だから、人の女性から生まれることは決してない。キリストは大いなる主の教えを人間に伝える為、霊体として天から遣わされたと、彼らは考えていた。これはその思想を絵にしたものなんだ」
「アルビ派といいますと、アルビジョワ十字軍で滅ぼされたんですよね」
「そうだとも。十字軍が終わった後も、南フランスでは異端審問官が長年に亘って異端狩りを推し進めた。その為に、アルビ派の信者はたった一人さえ残らず、教義は焚書されて一篇すら残っていないと言われている。それほどまでに徹底的に、容赦なく壊滅し尽くされた、まさに幻の異端派なんだ」(藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』、318-319頁)

作中では、古文書学者であるロベルトの台詞として、ユダヤ・キリスト教の起源や、カタリ派の思想について語られます。
ロベルトが語った台詞を要約すると、次のような仮説となります。
  • 古代のメソポタミア神話やシュメール神話、エジプト神話が『旧約聖書』における人類誕生や楽園追放物語に継承された。
  • メソポタミア神話の男神エルと女神アシラトという夫婦神が、『旧約聖書』やイラン神話、インド神話にも影響を与え、エジプト神話の女神イシスとも習合し、ギリシャ・ローマ神話に継承され、キリスト教誕生に影響を与えた。
  • メソポタミアやエジプトの神話を継承したギリシャ・ローマ神話の女神崇拝は、ガリア・ローマ時代にケルトに伝わる豊穣の女神たちと習合し、後のキリスト教受容に影響を与え、キリスト教の聖母崇敬に継承された。
  • ケルトの豊穣の女神と『新約聖書』のマグダラのマリアが習合し、アルビ派はイエス・キリストの後継者としてマグダラのマリアを篤く崇敬した。

以上の仮説は、ロベルトという登場人物を通して、作者が論じている仮説です。
カタリ派が、古代の女神崇拝を継承しており、マグダラのマリアを篤く崇敬していたという仮説は、カタリ派の思想に対する作者独特の解釈であると言えます。

(1)カタリ派の思想的起源とは?


池上俊一は、カタリ派の思想的起源について「ボゴミール派をカタリ派の直接の起源とするのが通説となった」(『ラングドックのカタリ派:新たな視点の確立のために』、1985年)と論じています。
ミシェル・ロクベールは、ボゴミール派は、キリスト教会の東西分裂(1054年)以降、コンスタンティノープル教会およびローマ教会の権威と教義に異議申し立てする、二元論的宗教運動の「もっとも古い形態」であり、「ボゴミル派があちこちに拡散していった」(『異端カタリ派の歴史』、2016年)と論じています。
西暦950年頃、ボゴミルと呼ばれる修道僧が、ブルガリアに二元論的教義を広め始め、その信奉者たちはビザンチン帝国一帯で「ボゴミル派」と呼ばれるようになります。
「ボゴミル」とは、古スラブ語で「神の慈愛にふさわしい」「神に愛された」といった意味であり、教祖ボゴミルの名前をとって、彼の弟子たちをボゴミル派と呼んだと言われています。
ミシェル・ロクベールは、ブルガリアの一部で「ボゴミル」すなわち「神に愛された人々」という二元論的宗教運動が起こり、その土地だけで知られていた無名の指導者が、後に「ボゴミル」と名乗るようになったか、そう呼ばれるようになったのではないか、と推測しています。
ミシェル・ロクベールが紹介するボゴミル派の思想は、要約すると次のような特徴を示しています。

  • ボゴミル派は、「物質世界と肉体の創造は悪魔のなせる業」であると主張し、人類創造を記録した『旧約聖書』に対して、全く価値を認めない。
  • イエス・キリストが聖母マリアから生まれたこと、彼が奇跡を起こしたことを否定する。
  • 十字架や聖遺物、イコンを敬う儀礼習慣を否定し、最後の晩餐を寓話として解釈することによって、聖体の秘跡を無効とする。
  • 婚姻の秘跡、司祭への告白も無効であり、幼児洗礼に対しては特に強く否定する。
  • 水による洗礼をやめ、手とヨハネ福音書を信徒の頭に置いて聖霊を注ぐ独自の洗礼を行い、この按手による洗礼によって「選ばれた人」に昇格し、男女を問わず「選ばれた人」たちが教会の聖務を担う。

ボゴミル派は、イエス・キリストの受肉、贖いとしての受難を否定しますが、彼ら自身は「良きキリスト者」であることを自負していました。
以上のボゴミル派の基本的特徴は、カタリ派の思想・教義の基本構造ときわめて一致していると言えます。
ボゴミル派独自の按手による洗礼は、カタリ派の「コンソラメント」と呼ばれる儀式に相当し、ボゴミル派の信徒たちが受洗後に「選ばれた人」と呼ばれたように、カタリ派の信徒たちはコンソラメントよって「完徳者」ならびに「完徳女」と呼ばれました。
ボゴミル派の歴史は、カタリ派よりも2世紀古く、10世紀中頃にはバルカン半島全体に広がり、11世紀初頭にはエーゲ海沿岸まで広がったと言われています。
カタリ派の二元論的宇宙開闢論や人間論、キリスト論、按手による洗礼の儀式は、上述したボゴミル派と一致しており、カタリ派はボゴミル派の影響を受けたと考える方が自然でしょう。
ミシェル・ロクベールは次のように論じています。

結局のところ、カタリ派は完全にボゴミル派から生まれたのか、それともボゴミル派からの直接的影響なしに、自発的に発生したものなのか、を問うのはあまり意味のあることだとは思われない。カタリ派がボゴミル派から生まれたのではないとしても、両者が多くの本質的な点で一致していることはたしかであり、それゆえカタリ派をボゴミル派のいわば西欧版とみなしても事態を歪曲することにはならないだろう。(ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史』、講談社、2016年、80頁)


(2)カタリ派の二元論


上でロベルトの台詞を要約したとおり、『ジェヴォーダンの鐘』ではカタリ派が古代の女神崇拝を継承し、マグダラのマリアをイエス・キリストの後継者として篤く崇敬していた、という説が語られますが、カタリ派の世界観・人間観と豊穣の女神崇拝との間には大きな差異があり、思想的連続性が認められないのではないか、とわたしは考えます。
マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」の記事の中で、古代ギリシャの豊穣を司る女神デメテルについて詳しく検討したとおり、古代の女神崇拝は、自然の季節の循環と人間の生殖の営みを象徴しており、大地の恵みとともに、妊娠・出産による子孫繁栄の恵みを司っています。

一方、カタリ派にとっての現世とは、悪しき創造者すなわち悪魔が闇から創った醜く、暗く、悪意に満ちた世界であり、草木の芽生えや動物の誕生、降雨、雷などの自然現象は悪魔の所業なのです。
この物質的世界=現世とは対照的に、神によって創られた霊的世界=神の国は、飢えも乾きも寒さも暑さもなく、貧富・階級の差もなく、悪や醜い物質性が無い、完全に美しい世界であるとカタリ派は主張しました。
カタリ派の考えでは、人間の魂は、もともと霊的世界に属する清浄な天使でしたが、悪魔の王国である物的世界に引きずり降ろされ、肉体という牢獄に封じ込められ、性欲・貪欲・罪・死という悪徳を備えてしまった囚われの魂です。
囚われの魂は、罪を贖わないままでは、死んでも天国に戻ることはできず、再び現世の人間もしくは動物の肉体に宿って、贖罪が終わるまで何度でも輪廻転生を繰り返すと考えられていました。
そのため、カタリ派の信徒たちは、囚われの魂が悪の世界から解放されることを願い、コンソラメントを受けて「完徳者」ならびに「完徳女」となり、肉食・殺生・生殖を禁じる厳格な禁欲生活を送って徳性を高め、神の恩寵によって帰天することを目指しました。

このように、物的世界を地獄と認識して、霊的世界のみを希求する信仰と、草木の芽吹きや大地の実り、妊娠・出産という生の営みの中に神の業を感じ、豊作や子孫繁栄を神の恵みとして喜び、感謝する信仰とは、世界観・人間観が全く異なると言えます。

『ジェヴォーダンの鐘』における、カタリ派についての記述を読んだ際に、わたしが最も違和感を覚えたのは、このカタリ派の二元論的世界観・人間観について、全く言及していないことです。
作中のロベルトは、「アルビ派は、キリストは肉体のない霊体だと考えた」(358頁)と、カタリ派のキリスト論について語っているにもかかわらず、カタリ派のキリスト論の前提となる二元論的世界観については全く語らないため、非常に不自然に感じました。

そもそも、世界が創造されたのではないと考えれば、カトリックも、カタリ派も、どちらの創造論も誤りであり、どちらが正統か異端かという議論自体、意味を持たないことになります。
二元論の問題を検討する前に、世界が創造されたものである、という考えに立つことが大前提であると言えます。
カトリックもカタリ派も、原初の創造行為が存在した、という考えについては共通しています。
そして、世界が創造されたとするならば、世界を存在に至らしめた原因ないし原理は何なのか? という考察において、カトリックとカタリ派では大きく見解が異なっているのです。
カトリック教会では、よく知られているとおり、神は唯一の創造主であり、「天地の創造主」(『使徒信条』)、「見えるものと見えざるものすべての創造者」(『ニカイア信条』)、すなわち物質的現実世界および精神的世界すべての造り主です。

一方、13世紀イタリアのカタリ派によって書かれた『二原理の書』では、完全である神は、その無限の善性ゆえに、悪をなすことができる存在、すなわち不完全な存在を造り出すことができない、と主張します。
完全にして善なる神は、もろくはかなく腐敗する物質、苦しみ老い死んでいく肉体などを造り出すことができない、と論じます。
苦しみに満ちた物質的世界を生み出したのが、神ではないと考えるならば、神とは別の原因・原理が存在するということになり、このような教義は「二元論」と呼ばれました。

善と悪、物質と精神、魂と肉体、天と地、光と闇、無限と有限、善なる神と悪魔など、互いに相容れない対立概念によって、世界を説明しようとする「二元論」は、カタリ派が出発点ではなく、ギリシャ哲学のプラトンまで遡ります。
ヘーゲルやマルクスも、相対立し、矛盾し合う概念を措定し、両者を乗り越えることによって、哲学を発展させました。
『二原理の書』において、カタリ派は「至高にして真実の神」は、唯一ただひとりであり、「良き創造」の唯一の創造者であると主張します。
この「良き創造」に含まれるのは、純粋に精神的で目に見えないもの、天使や魂です。
目に見える物質的なものはすべて「悪しき創造」によって造られたものであり、人間や動物の肉体は「悪しき創造者」が造った魂の牢獄であると論じたのです。
以上のカタリ派の二元論的世界観の基本的特徴を整理して、わたしは下の図を作成しました。




『ジェヴォーダンの鐘』では、カタリ派の思想と古代の女神崇拝、女性聖者崇拝を結びつけて解釈していたため、作者はカタリ派の二元論的世界観・人間観の説明を、意図的に省いたのではないかと考えられます。
以上のカタリ派の二元論的世界観・人間観に基づいて考えると、作中で語られたような「豊穣や多産や癒しの力、蘇りの力」をカタリ派が重視したとは考えられず、「女性的側面を重視したアルビ派」(362頁)とは言えないでしょう。
上述したカタリ派の思想は、古代の女神崇拝よりも、むしろ仏教と類似しているのではないか、とわたしは感じます。
現世を地獄と考え、罪のある魂は輪廻転生を何度も繰り返し、徳を積んで罪を贖い、輪廻から解放されることを目指すという、カタリ派の信仰の基本構造は、上座仏教の構造とよく似ています。
カタリ派の「完徳者」や「完徳女」と、上座仏教の「出家者」は、厳しい禁欲生活を送り、自己救済を目指すという、信仰実践も似ていると言えます。

カタリ派の一般的な信徒たちは、この世界はあまりに多くの悪がはびこっており、苦しみで満たされていると、日々実感していたからこそ、そんな世界は「神さま」の被造物ではありえない、という説教師の言葉を聞いて、素朴に納得したのかもしれません。
現代では、当時のカタリ派教会の数百人の男女「完徳者」たち、数万人の信徒たちの名前の記録が発見されています。
カタリ派の一般信徒の大多数は、自分で『旧約聖書』や『新約聖書』を読むことが出来なかったのであり、カトリックとカタリ派の神学を比較し、精査した上で、自らの信仰を選んでいたわけではないのです。
12世紀のオック地方の人々が、カタリ派の思想を受容した背景として、階級制社会や貧困、病気、内戦などに苦しみ、生きる不安や死への恐怖を常に感じていたため、死後の魂の救済を強く求めた可能性が考えられます。

カトリック教会は、カタリ派を異端とし、十字軍と異端審問という暴力的な手段で迫害し、消滅させました。
カタリ派の消滅によって、オック地方の人々の心には、大きな空洞が生じたことは言うまでもないでしょう。
そのため、カトリック教会は、フランシスコ会、ドミニコ会などの托鉢修道会の僧院を、この地方に次々と建てることによって、人々の精神的空洞を埋めたのです。
「完徳者」や「完徳女」たちが実践した厳格な禁欲生活と同じように、カトリックの「修道士」や「修道女」たちが清貧・貞潔・自己放棄・労働と祈りの生活を送ることで、一般信徒たちが希求する、福音的生活を実践したと言えます。

もし、カタリ派が滅びず、中世からルネサンス、近代まで存続していたとすれば、人々の暮らしが豊かになり、安定していくにつれて、カタリ派の現世否定的な世界観・人間観は、しだいに共感を失い、ゆるやかに衰退していったのではないでしょうか。
ミシェル・ロクベールによれば、オック地方やイタリアのカタリ派教会が消滅した後も、ボスニアでは二元論的キリスト教派が生き残っていました
ボゴミル派の影響を受けたと考えられているボスニア教会は、ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の両方から異端とされましたが、15世紀の中頃にオスマン帝国に併合されるまで、自分たちの信仰を守り続けていたのです。
強大なオスマン帝国に支配されてからは、なかば強制的にイスラム教徒に改宗しました。
彼らの遠い子孫たちである南スラブ系の人々は、現在はボシュニャク人と呼ばれています。



(3)聖マドレーヌ信仰の流行


また、『ジェヴォーダンの鐘』における、カタリ派がマグダラのマリアをイエス・キリストの後継者として篤く崇敬していたという説についても、わたしは疑問に感じます。
上述したとおり、カタリ派は肉体を悪しき被造物、魂の牢獄として認識したため、イエス・キリストが人間の女性から肉体を持って生まれたことを否定し、人類の罪を贖う受難も、肉体の復活も寓話であるとして、否定しました。
カタリ派にとって、イエス・キリストは悪しき肉体を持たない霊的な存在であり、囚われの魂を救うために地上に遣わされた、特別な天使なのです。
このようにイエス・キリストの人性を否認し、神性のみを認める教義にあって、不浄で悪しき肉体を持った人間であるマグダラのマリアをとりわけ崇敬するでしょうか?

カタリ派の前身であるボゴミル派は、キリストが起こした奇跡を否定し、十字架や聖遺物を敬うことを否定しています。
奇跡と聖者信仰は密接に結びついており、聖者たちの聖なる遺骸の一部、骨や髪などが聖遺物として敬われ、人々は奇跡を待望しました。
しかし、人間の肉体を、悪魔によって創られた不浄で悪しき被造物と考えるならば、遺骸を聖なるものと見なすことは不合理であり、遺骸の一部が奇跡を起こすなど妄言であるため、聖者・聖遺物信仰は否認されることでしょう。

前項「奇跡物語の意味」で述べたとおり、中世のヨーロッパでは聖者信仰が急速に拡大しました。
マグダラのマリアは聖マドレーヌと呼ばれ、聖母マリア、聖マルタとともに、中世の西ヨーロッパ全体で篤く崇敬されたことは事実です。
この女性聖者信仰の大流行と、カタリ派の思想・教義とは全く別の問題であり、分けて議論するべきであるとわたしは考えます。

聖マドレーヌ(マグダラのマリア)は、12世紀に西ヨーロッパでにわかに信仰が高まった、西欧的かつ中世的な聖者です。
『新約聖書』において、四つの福音書の中でマドレーヌは何度も登場し、それぞれ少しずつ違ったバリアントで伝承されています。

マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ福音書12章3節、新共同訳)

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。(ヨハネ福音書11章1-2節)

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書8章1-3節)

イエスの死に際して「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ福音書27章55-56節)

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。(マルコ福音書16章9節)

マグダラのマリアは、イエスの死と復活に立ち会った女性の一人であり、復活したイエスは最初にマリアに現れました。
イエスの生涯において、何度も登場するこの女性が果たして同一人物なのかは、定かではないと言われています。
ギリシャの神学では伝統的に、マグダラのマリアとベタニアのマリア(香油を塗った女性)を別人と考える説が支持を集めていました。
ローマ教会では、大法王グレゴリウス1世が「ルカが罪ある女と呼び、ヨハネがマリアと呼びし女は同一人である。七つの悪鬼よ解き放たれし女であることは、マルコが証した」と断定して以来、同一人観が定着しました。
したがって、西欧と東欧ではマグダラのマリアの評価が異なり、東欧ではあまり崇敬されなかったため、聖マドレーヌは西欧的な聖者であると言われています。

フランス中部ブルゴーニュ地方の巡礼都市ヴェズレーに位置する、サント・マドレーヌ・バジリカ聖堂は、マドレーヌ信仰の中心地であり、中世ではサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の一つとして巡礼者たちが押し寄せました。
9世紀に創建された当初は、救世主と聖母(ノートル・ダム)に捧げられた聖堂であり、マドレーヌとは無関係でした。
11世紀前半に、この聖堂に聖マドレーヌの遺骸があると信じられるようになり、衰亡の危機にあったヴェズレー僧院は、新しい聖者崇拝すなわちマドレーヌ信仰によって復興したのです。
ヴェズレー僧院は、『聖女マドレーヌ奇蹟の書』や、マドレーヌの遺骸がなぜローマ帝国支配下のパレスチナから、ヴェズレーにもたらされたのかを説明する物語を巧妙に宣伝することによって、聖女の遺骸が真正であることを証明しました。
マドレーヌの遺骸の移葬にまつわる物語は、捏造の上に捏造を重ねたものであり、1279年にマドレーヌの遺骸がプロヴァンスのサン・マクシマン教会で出現したことで、ヴェズレー僧院の人気は凋落し、13世紀末以降はプロヴァンスがマドレーヌ信仰の聖地として栄えるのです。

渡邊昌美は、西欧でマドレーヌ信仰が急速に広がった背景について、宣伝の巧妙さだけでなく、次のような理由があると推察しています。

しかし一面では、彼女が隠遁、苦行、贖罪という敬虔実践の象徴となっていた事情も見逃せません。山野に逃れた隠者には庵室を聖女マドレーヌの保護に委ねる者が多かったと申します。先ほど見ました『歌』でも、アルデンヌの森で隠者が聖女に祈っておりました。『聖女マリ・マドレーヌの隠遁生活』という苦行譚が十二世紀に流行しますが、その結果人々は聖女が苦行した洞窟などという「史蹟」を求めるようになります。(渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』、岩波書店、1989年、154頁)

渡邊は、聖母崇拝をはじめとする女性聖者信仰が高まった中世の時代に、「聖女マドレーヌはもっとも人気のあった聖者の一人」であったと論じています。
『ジェヴォーダンの鐘』では、ロベルトが「アルビ派はただ、ペテロよりマリアを信じた」と語っていますが、そもそも女性聖者信仰はローマ=カトリック教会の信徒たちの間で急速かつ大規模に拡大した現象であり、カタリ派の思想・教義と女性聖者信仰の流行とは無関係であると言えるでしょう。
カタリ派において、コンソラメントは洗礼と同時に叙階の役割を果たしており、コンソラメントを受けた「完徳者」や「完徳女」たちは、厳格な禁欲に従って生活しました。
一方、カタリ派の一般信徒たちは、結婚して子供を作り、肉を食べるなど、ローマ教会の一般信徒と変わらない生活であったことから、聖者や聖遺物を崇敬していたかもしれません。

渡邊は「聖者と奇蹟と聖遺物の三つは切っても切れない関係」であると論じています。
16世紀以降、宗教改革を経て成立したプロテスタント教会では、カトリックが公認する聖者崇拝や聖遺物崇拝に対して批判し、聖者や聖遺物を否認しました。
ヴェズレーの聖マドレーヌの遺骸が真正か偽物か、聖者崇拝や聖遺物崇拝を公認するか否認するかに関係なく、『新約聖書』に記されているマグダラのマリアの行いは、マリアの信仰を証ししていると言えます。
マグダラのマリアは「聖者」ではないと考えたとしても、「敬虔実践の象徴」として、尊敬できる一人の女性信徒であることは変わらないでしょう。



(4)女性聖者崇拝の急速な拡大と発展


『ジェヴォーダンの鐘』の中では、「聖マルタの怪獣タラスク退治」の伝説についても語られています。
ヴェズレーにおけるマドレーヌ信仰の成功は、彼女の姉妹マルタと兄弟ラザロにまつわる、新しい聖遺物と聖地を生み出しました。
十二世紀、オータン司教座大聖堂は、マドレーヌの兄弟ラザロの遺骨があると主張し、人々から信じられるようになります。
ここも、本来は聖ナゼールに捧げられた聖堂でしたが、ヴェズレーのマドレーヌ信仰の高揚を受けて、ラザロの遺骨が出現したのです。
なぜラザロの遺骨がオータンにあるのかは、ヴェズレーにマドレーヌの遺骨があるのだから、近くに兄弟の遺骨があっても不思議ではないと受け容れられました。

プロヴァンスのタラスコンという町では、1187年に聖女マルタの遺骸が発見され、1197年にはサント・マルト寺院が創建されました。
遺骸発見より少し前に、『聖女マルタ伝』(12世紀中頃)が成立したと言われています。
『聖女マルタ伝』は、マルタの従者マルセルがヘブライ語で書いた本が発見され、それをラテン語に翻訳したものという体裁の聖者伝ですが、現代では贋作であることが分かっています。
聖女マルタ信仰は、この土地にもともと語り継がれていた、キリスト教改宗以前の神話と習合したと言えます。
この地に来たマルタは、怪獣タラスクを退治して、地域の大災害を除いたという伝説になり、聖女の怪獣退治を再現した民俗行事であるタラスク祭りは、現在でも毎年6月に開催されています。

『ジェヴォーダンの鐘』で語られている、古代の女神崇拝をカタリ派の思想的起源とする説に対して、わたしは疑義を呈しましたが、古代の女神崇拝が女性聖者崇拝に継承されたという説については、可能性が高いと考えます。
聖者がいかにして自分たちの土地に来たか、聖遺物の来歴を説明する物語は、『新約聖書』には全く語られていないことであり、『新約聖書』の登場人物たちのその後を描いた続編、いわば二次創作であると言えます。
ベタニアの一族(マドレーヌ、マルタ、ラザロ)の場合は、大迫害の時代にパレスチナから脱出し、海を渡ってマルセイユから上陸し、その土地を訪れた、という物語が語り継がれてきました。
上述した『聖女マルタ伝』は、ヴェズレーが創作したマドレーヌ渡来伝説を前提とした物語であり、三次創作と言えます。

聖者渡来伝説は、聖者とその土地との結びつきを説明する物語であるからこそ、「聖マルタの怪獣タラスク退治」のように、キリスト教改宗以前の伝説や神話と、『新約聖書』の登場人物が上手く融合したのだと考えます。
したがって、女神崇拝だけが聖者伝説の起源ではなく、その土地のキリスト教改宗以前の信仰が、聖者伝説に影響を与えたと言えます。
巨岩や大木、泉などに聖性を感じる古い信仰が、キリスト教的な説明を与えられ、キリスト教信仰に転化した例も多いと考えます。
前項「奇跡物語の意味」の冒頭で紹介した、ル・ピュイ=アン=ヴレの礼拝堂は岩山の上に建てられており、堂内には人々の病を癒す聖なる石があります。
この岩山は、キリスト教改宗前の時代にも聖所であり、この石の上に聖母が出現したというキリスト教的説明が与えられることによって、キリスト教改宗後も変わることなく、聖なる石は人々の病を癒し続けたのです。

聖者伝説や聖遺物が、捏造や贋作、二次創作、三次創作であったとしても、当時の一般信徒たちは、自分で『旧約聖書』も『新約聖書』も読むことが出来ないため、説教師たちが語る物語が説得的であれば、素朴に信じたのだと思います。
聖者や聖遺物そのものが奇跡を起こすと考える一般信徒たちを危惧して、アウグスティヌスは「奇蹟はあくまで神の業」であると主張し、聖者崇拝が独走することを戒めています。

「ステパノのために祭壇を設けるのではない。ステパノの遺物をもって神のための祭壇を造るのだ」(『説教』318)
「聖職者は神に仕えるのであって、殉教者に仕えるのではない」(『神の国』22巻)


最後に


『ジェヴォーダンの鐘』の中で論じられている、カタリ派の思想に対する作者独特の解釈をめぐって、カタリ派の二元論的世界観・人間観と、女性聖者崇拝を中心に考察しました。
作者のカタリ派解釈については、疑問に感じる部分も多少ありますが、物語全体としては、示唆に富む良作であることは、最初に述べたとおりです。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中で、本書は、猟奇的な連続殺人事件も、恐ろしい犯罪者集団の陰謀も起こらず、主人公たちが命の危機に陥ることもないので、ミステリやサスペンスを求める読者には、退屈に感じるかもしれません。
しかし、ミステリやサスペンス要素に頼らずに、「奇跡を調査する」という題材を丁寧に描いた本書は、物語を通して「奇跡」とは何か、「奇跡の意味」について考えさせられる良作であり、「バチカン奇跡調査官」というシリーズにふさわしい一冊であると、わたしは思います。




参考:渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』(岩波書店、1989年)
ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史:十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(講談社、2016年)
池上 俊一「ラングドックのカタリ派 : 新たな視点の確立のために」(史学雑誌、1985)

2018/05/12

マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」

世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
  • 発売元: 學藝書林
  • 発売日: 1994/03

アイリーン・ダイアモンド/グロリア・フェマン・オレンスタイン編『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』奥田暁子/近藤和子訳、学芸書林、1994年)の中から、第一部「歴史と神秘」に収録されている、マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」の要点をまとめ、考察したいと思います。
『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』の構成と目次については、イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の記事内にまとめてあります。

マラ・リン・ケラー(Mara Lynn Keller)は、エール大学で哲学Ph.D.取得。1960年代から公民権・平和・女性運動で活動。サンフランシスコ州立大学で、哲学、平和学、女性学の講義を担当しているとのことです。(本書刊行当時)
「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」は、Journal of Feminist Studies in Religion, 4(no.1:Spring 1988)に掲載された同執筆者の論文"The Eleusinian Mysteries of Demeter and Persephone:Fertility,Sexuality and Rebirth"(デメテルとペルセポネのエレウシスの秘儀:豊穣・セクシュアリティ・再生)を短く書き直したものです。



「エレウシスの秘儀」とは?



マラ・リン・ケラーは、古代ギリシャの豊穣を司る女神デメテルと、デメテルの娘ペルセポネ(乙女の意味の「コレ」とも呼ばれる)の神話について取り上げ、デメテル信仰における「エレウシスの秘儀」を中心に論じています。
筆者は、ギリシャの詩人ヘシオドス(紀元前750-650年頃)の「ガイアへの賛歌」を引用して、デメテルもガイア同様に「大地母神」であったとし、「創意と努力で大地の実りと物質的な豊かさを増やすことのできる穀物栽培をギリシア人に教えた女神」と定義します。
このようなデメテルと、デメテルの娘ペルセポネの神話は「いつの時代にあっても、最も神秘的なこと-誕生・性・死-と最大の神秘である性の経験-永遠の愛-をあきらかにするもの」であると論じています。

古代ギリシャにおけるデメテル信仰の中心地は、アテネの北東に位置するエレウシスだったと言われています。
マラ・リン・ケラーによれば、ミケーネ文明時代(紀元前1600-1200年頃)の人々によって、紀元前1450年頃にデメテルを祀る神殿が初めてエレウシスに建てられました。
古代には、ギリシャの全土からエレウシスに参詣者が訪れ、「エレウシスの秘儀」と呼ばれる祭儀は、男女、老若、奴隷・自由民を問わず、あらゆる人々に開放されました。
マラ・リン・ケラーは、古代ギリシャの宗教的儀式の中で、この「エレウシスの秘儀」が最大の儀式であったとし、9日間におよぶ祭儀について詳しく紹介しています。
マラ・リン・ケラーが紹介する祭儀の様子をまとめると、下記のような日程になります。

祭りを告げる使者がアテネとエレウシスからギリシャ全土に送られ、あらゆる戦闘が二日間停止される。儀式が行われる9日間は、訴訟もすべて中止される。
1日目:「メリッサ」と呼ばれるデメテルの巫女たちが、奉納物を入れた籠を頭に乗せて、エレウシスのデメテル神殿から、アテネの城砦のふもとにあるエレウシス神殿まで、聖なる道に花や果物をまきながら歩き始めて、祭儀が始まる。
祭司によって公式に告知され、祭儀が開始する。祭司は、その前年の春に小秘儀に入信した者を招集し、今年の大秘儀に入信させる。
2日目:入信者はエーゲ海に行き、海水で身をきよめる。
3日目:女性、子供、国家の指導者、市民のために祈りが行われる式典の日。
4日目:癒しの神アスクレピオスに奉げられた日。
5日目:入信者と共同体とが、「イアッコス」と呼ばれる少年を先頭に、アテネからエレウシスまで大行列で行進。夕刻には、エレウシス郊外の特別な水場で身体を清め、たいまつを持って儀式を行うために集まる。女性たちがデメテルを讃えて踊り、夜を徹してお祭り騒ぎをする。
6日目:入信者は一人ずつ「からかいの橋」と呼ばれる、町の人々がからかったり、嘲笑したりする橋を渡って、デメテルの聖域に入る。
7日目-8日目:夜に秘儀が行われる。入信者はデメテル神殿に入り、秘儀の核心的な部分を経験する。
9日目:祈りと死者への献酒が行われ、祭儀終了。入信者は家に帰る。

7日目と8日目の両夜に行われる儀式について、確実に明らかになっていることは、入信者が入信式の最中に「燃えている大きな炎」を目撃したということです。
マラ・リン・ケラーの推測に従えば、儀式は次のような構成となります。

・入信者はデメテル神殿内の聖域である子宮のような穴(プルートニオン)に下りて行く。
・初穂を授けられる聖餐式への列席。
・デメテルとペルセポネの神話の一部の舞台化。
・二柱の女神の聖なる物語を題材とする「デメテルへの讃歌」の詠唱。
・自然の豊穣力を表すシンボル(人間の生殖器のシンボルやひと粒の麦)をデメテルにささげる。

この儀式を通して、入信者は「特別な視覚」を得て、「目が開かれる」経験をしたと、マラ・リン・ケラーは推測しています。

入信式のなかで、入信者は地下の世界に誘いこまれるような気持ちになり、病・苦・死に負けたことがあったのを思い出し(記憶の底や意識下にある苦しみ、あるいは民族の歴史が意識していない苦しみさえも思い出した)、悲しみに圧倒されるのであった。それから、癒しや聖なる結合に加えられたよろこびを経験し、新しい生命に出会うのである。
入信者はおそらく、地母神である女神、死の世界から帰還したペルセポネ、母と子の再会、生と死という自然の本質などを夢想したのだろう。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より100頁)

このような幻視体験について、入信者の断食と祈り、そして期待が役立っただろうとマラ・リン・ケラーは推測します。
しかし、アルコール類や幻覚作用のある植物を使用していた可能性も十分に考えられます。
入信者は、「プルートニオン」(冥界への入り口)を下って、地下の世界=死者の世界を体験し、日の出と同時に暗黒の世界から、明るい地上の世界に戻ることによって、「死と再生の体験」をしたのだろうと、マラ・リン・ケラーは推測しています。

これらの儀式を通じて、入信者たちはデメテルとペルセポネの神話を追体験し、娘を死者の世界へ奪われた母デメテルの悲しみを感じ、娘が死者の世界から地上の世界へ再び戻って来る喜びを感じたのかもしれません。
マラ・リン・ケラーは、「エレウシスの秘儀」は「わたしたちの時代の神話」であり、「魂がたどる旅の教えは、時代や場所、年齢や性を超越する」と論じています。



古代ローマ時代のギリシャの著作家アポロドーロス(紀元1世紀~2世紀頃)は、伝統的なギリシャ神話と英雄伝説を記した『ビブリオテーケー』(Biblioteke、邦題は『ギリシア神話』)の中で、「エレウシース」の「秘教」について伝承しています。
このアポロードロスが伝承する「秘教」は、「エレウシスの秘儀」と同じ祭儀を指していると考えられます。
英雄ヘラクレスが、地獄からケルベロスを持ってくることを命じられ、冥界に行くために「エレウシースの秘教」に入会し、死者の世界へ降りて行き、死者の世界でペイリトゥースやテーセウスを助け、猛獣ケルベロスと武器を使わずに格闘するなど、冒険を繰り広げたことが伝承されています。

第十二番目の仕事として地獄からケルベロスを持って来ることを命ぜられた。これは三つの犬の頭、竜の尾を持ち、背にはあらゆる種類の蛇の頭を持っていた。これを目指して出発しようとして、秘教に入会させてもらう目的でエレウシースのエウモルポスの所へ来た。しかしその当時は異邦人は入会を許さなかったので、ピュリオスの養子となって入会した。しかしケンタウロスの殺戮から身を潔められていなかったので、秘教を見ることができず、エウモルポスに潔められて、それから入会を許された。そして地獄へ降りる道の入口のあったラコーニアーのタイナロンに来たり、この入口から降りた。(アポロドーロス『ギリシア神話』、岩波文庫、102頁)

アポロドーロスが伝承した伝統的なギリシャ神話を読むと、エレウシスに死者の世界への入口があると広く知られており、「秘教」=「エレウシスの秘儀」によって、死者の世界へ行くことが出来ると、人々に広く信じられていたことが分かります。
一方で、「秘教」に入信したヘラクレス自身が、デメテルやペルセポネを信仰したり、崇敬する様子は全く記述されていません。
したがって、ヘラクレスにとって「秘教」に入信することは、死者の世界へ行くための単なる手段であったと言えます。
実際に行われた「エレウシスの秘儀」においても、ヘラクレスと同じように、死後の世界に対する不安・恐怖、興味・関心から入信・参詣した人々が少なくなかったと言えるでしょう。

また、マラ・リン・ケラーが説明する「エレウシスの秘儀」と、アポロードロスが伝承した「秘教」とは、入信条件が異なっています。
マラ・リン・ケラーは、年齢・性別・階級を問わず、あらゆる人々に開放されていたと説明していますが、アポロドーロスは「その当時は異邦人は入会を許さなかった」と記述しています。
「その当時」と言うのは、英雄ヘラクレスが生きていた当時のことであり、<神話時代>とも言える古い時代のことでしょう。
したがって、アポロードロスが生きていた紀元1世紀~2世紀頃のギリシャでは、「エレウシスの秘儀」は異邦人にも開放されていたが、はるか昔の神話時代では異邦人は入信を許されなかったという意味になります。
ヘラクレスが生きていた<神話時代>が、実際の歴史年代に換算すれば紀元前何世紀頃に当たるのか分かりませんが、エレウシスのデメテル崇拝が太古の時代から続いてきたことは明らかです。



デメテルは死者の女王なのか?


エレウシスのデメテル神殿に死者の世界への入口があり、死者の世界へ行くための儀式が「エレウシスの秘儀」の核心的な部分であるとすれば、豊穣を司る女神デメテルの本来の職能とはかけ離れており、わたしは不自然であるように感じます。
穀物栽培を司り、実りをもたらしてくれる女神が、なぜこれほど「死」と結びつけて信仰されたのでしょうか?
マラ・リンケラーの議論では、このような問いを立てていないため、なぜ豊穣の女神が「死」を司っているのか、なぜデメテルの神殿に死者世界への入口があるのか、という考察が欠けていると言えます。
そこで、祭儀の由来であるデメテルの神話について、検討してみたいと思います。

デメテルとペルセポネの神話を伝える最古の記録は、古代ギリシャの『ホメロス風讃歌』(紀元前7世紀~7世紀頃)と呼ばれる作者不詳の讃歌集に収録されている「デメテル讃歌」です。
この「デメテル讃歌」において、デメテルの娘ペルセポネは冥界の王ハデス(「プルートーン」とも呼ばれる)によって誘拐されます。母デメテルは、嘆き悲しんで、行方不明の娘を探し歩き、その間は大地の実りがもたらされなくなります。
これに困ったゼウスのとりなしで、デメテルは冥界から娘を連れ戻しますが、ペルセポネは一年のうち三分の一はハデスの后として冥界で暮らし、三分の二は母デメテルと一緒に地上で暮らすことになります。
この有名な神話について、前述のアポロドーロスも『ビブリオテーケー』の中で伝承しています。

プルートーンはペルセポネーに恋し、ゼウスの助力を得て彼女を密かに奪った。デーメーテールは夜となく昼となく炬火を手にして彼女を求めて全世界をめぐった。ヘルミオーンの人々よりプルートーンが娘を奪ったことを知って、神々に対して憤怒し、天界を捨てて身を一婦人の姿に変じ、エレウシースにやってきた。そしてまずカリコロン(「美しき舞」の意)という井戸の側の彼女にちなんでアゲラストス(「笑いなさい」の意)と呼ばれる石の上に座った。それからその時のエレウシースの人の王であったケレオスの所に赴いた。家の内に二三の女がいて、自分たちの側に坐るようにと言った。その時イアムベーなる一老女が戯談を言って女神を笑わせた。これがためにテスモポリア祭で女たちは嘲罵をたくましくするのであると言うことである。

ケレオスの妻メタネイラに一人の子供があって、これをデーメーテールが引きとって育てた。彼を不死にしようと思って夜な夜な嬰児を火中に置き、必滅の人の子の肉を剥ぎとろうとしていた。デーモポーンは-これが子供の名であったが-日毎に驚くほど成長したが、プラークシテアーが見張っていて、火中に入れられているのを見つけて大声をあげた。それがために嬰児は火に焼きつくされ、女神は本身を顕した。
しかしメタネイラの子供の中での兄であるトリプトレモスに有翼の竜の戦車を造ってやり、小麦を与えた。彼は空を飛んで人の住んでいるすべての地にこれを播いた。しかしパニュアッシスはトリプトレモスはエレウシースの子であると言っている。というのはデーメーテールは彼の所に来たのだと主張しているからである。ペレキューデースは、しかし、彼をオーケアノスと大地との間の子であると言う。

ゼウスがプルートーンに乙女を地上に帰せと命じた時に、プルートーンは彼女が母の側に永く留まらないように、彼女に柘榴の粒を食べるようにと与えた。彼女はその結果がどうなるかを予見せずにその粒を食べてしまった。アケローンとゴルギューラの子アスカラポスが彼女に不利な証言をしたので、デーメーテールは冥府で彼の上に重い石を置いた。ペルセポネーはしかし毎年三分の一はプルートーンとともに、残りの時は神々のもとに留まることを強いられた。
(アポロドーロス『ギリシア神話』、36-37頁)

アポロドーロスが伝えるデメテル神話は、三つの物語から構成されていると言えます。

①母デメテルが冥界から娘ペルセポネを取り戻す物語。
②娘を失ってから、デメテルがエレウシースに滞在し、人間の息子を養育する物語。
③デメテルが穀物栽培をエレウシースのトリプトレモスに教え、トリプトレモスが穀物栽培をギリシャ各地へ伝える物語。

デメテルによってエレウシスに穀物が授けられ、農耕発祥の地となったという物語は、エレウシスがデメテル信仰の中心地となった起源を示していると言えます。
トリプトレモスは、デメテルがもたらした農耕という恵みをギリシャ各地へ伝える使者の役割を担っています。
古代ギリシャの壺絵の研究によれば、紀元前6世紀頃から農耕伝播の使者としてのトリプトレモスが盛んに描かれたと言われています。
トリプトレモスを盛んに描くことは、農耕発祥の地であり、各地へ農耕を広めた自国の偉大さを讃える、広告的イメージだったと推測できます。
したがって、デメテルがトリプトレモスに小麦を授け、トリプトレモスが穀物栽培を各地に伝える物語は、明らかに政治的意図があり、アテナイのプロパガンダ的神話と言えるのではないでしょうか。



冥界の王ハデスの妻となったペルセポネが、死者の女王と見なされ、「死」と結びつけて信仰されることは自然な流れであるでしょう。
一方で、デメテルは明らかにハデスの妻ではなく、死者の女王ではないにもかかわらず、上述したように「死」と結びつけられて信仰されているのはなぜでしょうか?
母デメテルが冥界から娘ペルセポネを取り戻す物語の解釈として、私は次の三つの解釈を考えます。

(1)デメテルとペルセポネは同一神格であった
(2)大地の四季(春夏秋冬)と人間の人生(生と死、世代交代まで)を重ねる
(3)デメテルとイシスが習合した



(1)デメテルとペルセポネは同一神格であった

デメテルとペルセポネは同一神格であると考えると、デメテル=ペルセポネ(コレ)は女性の一生を象徴する女神とし解釈することが出来ます。
コレ(少女)→デメテル(母)→ペルセポネ(祖母)
少女から母へ、母から祖母へと年齢を重ねて変化する女性の三相を表現した女神であると解釈すれば、ペルセポネ(コレ)が体験した出来事は、デメテル自身が体験した出来事であると言えるでしょう。

デメテルとペルセポネは一つの神格として考えることは、大地の四季(春夏秋冬)を象徴しているという解釈にもつながります。
マラ・リン・ケラーは、次のように説明しています。

この聖なる物語は、母と娘の二人の女神の関係を描いているが、同時に大地の豊穣・不毛・再生という自然の季節の循環や、誕生と成長から死後にいたるまでの人間の経験する周期をも説明している。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より92頁)

コレ(少女)=春、デメテル(成熟した女性)=夏・秋、ペルセポネ(老女)=冬
少女から成熟した女性を経て、老女にいたる女性の一生を、春から夏へ、実りの秋から不毛の冬へという大地の四季に重ね合わせて解釈します。
ペルセポネが冥界の柘榴を食べてしまったため毎年三分の一は冥界に下るという定めは、一年のうちで、必ず厳しい冬が訪れる自然のサイクルを神話的に説明しています。
古代の人々は、一年を通して、温暖で実りのある季節が続いてほしいと願い、その願いに反して必ず冬が訪れる理由を必死に考えていたことでしょう。
そして、豊穣の女神は必ず老いて死ぬ運命であり、女神が冥界に留まっている間は冬枯れの季節となるのだ、と理解していたのかもしれません。


(2)大地の四季(春夏秋冬)と人間の人生(生と死、世代交代まで)を重ねる

このデメテルとペルセポネの物語を、<女性の一生>の象徴というだけでなく、<すべての人間の人生>を表現していると解釈することはできないでしょうか?
デメテルとペルセポネ(コレ)を、一つの神格として考えずに、母と娘、それぞれ別の神格として考えれば、全く違った物語の解釈が出来ます。

冥界の王ハデスによって、ペルセポネが死者の国へ連れ去られたということは、突然訪れる「死」を意味すると解釈することが出来ます。
母デメテルは、愛する娘が突然「死んでしまった」からこそ、激しく嘆き悲しみ、各地を旅して「喪」の期間を過ごすのです。
一度死んでしまった娘は、二度と生き返ることはないと知っていたから、母デメテルは養子を育てたと言えます。

ペルセポネが人間的な意味で「死んだ」と解釈すれば、物語の結末で、ペルセポネが地上に帰ってくる筋書きはどのように理解すべきでしょうか?
現実の人間にとって、死は一回限りの出来事であり、繰り返し経験するものではなく、決して蘇りは起こりません。
養子を育てるなど、長い「喪」の期間を終え、母デメテルは再び新しい子を産んだと考えてはどうでしょうか。
最初に死んだ娘が生き返ったというよりも、新しい娘を迎えたと解釈する方が自然だと思います。

人間が子孫をつなぐことによって、世代から世代へ「死と再生」を繰り返していくことは、枯死の冬を乗り越え、再び芽吹きの春を迎える大地のサイクルとぴったり重なり合います。
このように、蘇りの出来事が、「出産」を意味していると考えれば、デメテルが古代の人々に出産の守護神として崇敬され、ペルセポネの添え名が「産婆」であったことと一致するのです。

農耕のための地母神祭儀とともに、古代の人びとは性的結合と新しい人間の誕生を通して、共同体の再生を祝った。デメテルの祭儀は「作物の成長と人間の子孫の繁栄に関して同じ意図をもって行われた」と言われている。母娘の女神を信仰する宗教のおもな目的の一つは、生殖力と女性の人生における成長のパターンを娘に教えることであった。デメテルが出産の守護神であったように、ペルセポネの添え名の一つは「産婆」であった。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、90頁)

古代にあって、「出産」は命がけの出来事であり、産婦や乳幼児の死亡率は現在よりもはるかに高かったことは間違いありません。
出産を見守る「産婆」は、産婦や産児の「生と死」の両方を見届ける役目を果たしていたのかもしれません。
以上にように解釈すれば、デメテルが「出産」と「死」の両方を司る女神として、多くの人々の信仰を集めていた理由が説明できるでしょう。



(3)デメテルとイシスが習合した

さらに、(1)及び(2)で論じた、物語の解釈から離れて、外来の宗教の影響について考えます。
マラ・リン・ケラーは、「デメテルはエジプトのイシスと近い関係」にあるとし、エーゲ海のデロス島ではデメテルとイシスを並べて礼拝していたと紹介しています。

マラ・リン・ケラーのによれば、デメテルが娘を冥界から取り戻した神話と、イシスが亡夫オシリスの遺骸を集めて、夫を生き返らせた神話とが共通しており、この二柱の女神は「穀物と文明の法則を与える神、癒し手、死者の女王、生命の復活」という神秘をもたらす神として崇敬されていました。
アポロドーロスの『ビブリオテーケー』において、イシスは次のように伝承されています。

イーコナスの後裔である娘イーオーは、女神ヘーラーの祭官を務めていたが、天空を支配する神ゼウスに犯され、ゼウスの子を身籠る。
ゼウスの姉であり妻であるヘーラーの怒りから逃れるため、イーオーは広大な地域をさまよい、ついに海を渡ってエジプトに至る。
エジプトで息子エパポスを出産するが、ヘーラーのたくらみで子供は行方不明になり、イーオーは全シリアをさまよい歩いて子供を探す。
シリアのビュブロス王のもとで育てられているエパポスを発見し、イーオーは子供とともに再びエジプトに赴き、エジプト王テーレゴノスと結婚した。
そして、デーメーテールの像を建てた。
そのため、エジプト人はデーメーテールをイーシスと呼び、またイーオーをも同じ名で呼んだ。
エパポスはエジプトに君臨して、ナイルの娘メムピスを娶った。
(アポロドーロス『ギリシア神話』第二巻1章3節より抜粋)

古代エジプトにギリシャのデメテル信仰が伝道され、エジプトの人々はデメテルを「イシス」と呼び、また伝道者であるイーオーをも「イシス」と呼んだとアポロドーロスは伝承しています。
アポロドーロスにしたがえば、エジプトにおいてデメテルとイシスは習合し、二柱の女神は同一神格として崇敬されていたと言えます。

ローマ時代の弁論作家ルキウス・アプレイウス(123年頃-没年不詳)は、ラテン語小説『黄金の驢馬』の中で、イシス信仰に入信した主人公が、イシスの祭儀を受ける様子を詳しく描いています。
『黄金の驢馬』において主人公ルキウスは、「天上の女神よ、御身は慈母ケレースと呼ばれ、地上の作物の創造主であります。御身は御娘を探し出した喜びから、太古の食料だった樫の実の代わりに、それよりももっと甘い食物を授けて、未開の人々を養い、今日でもエレウシースの野に住み給う」と、イシスを賛美しています。

ローマ神話の豊穣を司る女神ケレースは、古くからギリシャ神話のデメテルと同一視されていました。
『黄金の驢馬』では、イシスをケレース=デメテルと同一視するだけでなく、「神々の母ペシヌンティア」、「ミネルウァ」、「ウェヌス」、「ディアーナ」、「プロセルピナ」、「ユーノー」、「ベッローナ」、「ヘカテー」など、起源の異なるさまざまな女神とも同一視しています。
アプレイウスの考えでは、さまざまな地域で崇敬されている多くの女神たちの全てがイシスであり、イシスこそ本来の名前であると語られています。
しかし実際に、イタリア半島にイシスの信仰が入ってきたのは、紀元前3世紀末~前2世紀初め頃と言われています。
ローマ時代は、帝国の版図拡大によって、勢力をもった宗教が、その教義本来の純度を失い、他の宗教を吸収し、同化する傾向にあったと考えられています。

アポロドーロスの『ビブリオテーケー』、アプレイウスの『黄金の驢馬』をふまえて考えると、デメテルとイシスは、マラ・リン・ケラーが指摘するような「近い関係」と言うよりも、同一視され、習合していたと言えます。
デメテルとイシス、どちらの神がより正統的であるかという議論は、信仰された時代や地域によって立場が異なるでしょう。
アプレイウスの生きた時代では、外来の宗教であるイシス信仰の方が、より人気があり、勢力が強かったのだろうと推測できます。

イシスは、殺害され、バラバラに切断された夫オシリスの遺骸を探し集め、繋ぎ合せて、亡夫を蘇らせます。
オシリスは、イシス自身の神秘的な力や秘術によって蘇るのであり、イシスは「生と死」を操る魔術の神と言えます。
一方、デメテルは娘が冥界へ連れ去られたとき、独力では取り戻すことが出来ず、諦めて養子を育てます。
ペルセポネが地上に戻ることになるのも、ゼウスのとりなしがあったためです。
イシスと比較すると、デメテルは死者を蘇らせる特別な力を持っている女神ではないのです。
娘が一度死んでしまったら、自分の力で蘇らせることは出来ず、養子を育てるしかない、というデメテルの物語は、女神の物語ではありますが、より人間的な真実味があり、まさに現実の母親の生き方を象徴していると言えるでしょう。

デメテル信仰における「エレウシスの秘儀」と、『黄金の驢馬』で描かれているイシス信仰の祭儀は、共通性があります。
本来のデメテルに特別な力が無く、現実の女性たちに近しい女神だったと考えると、「エレウシスの秘儀」において、入信者たちが神秘的で特別な体験をすることは、不自然に思えます。
デメテルとイシスが習合し、同一視されたことによって、イシスの持っていた神秘性や「生と死」を操る特別な力を、デメテルも持ち合わせることになったと考えられます。

以上のとおり、(1)及び(2)の物語解釈にあわせて、イシス信仰の影響が加わり、デメテル信仰はより「死」が強調された可能性があります。
それにより、人々はより神秘的な体験を求めて特別な祭儀を行うようになり、「死と再生」を疑似体験する「エレウシスの秘儀」へと発展したのだろうと考えられます。



デメテルとペルセポネの神話を読み直す


これまで検討してきた、デメテルとペルセポネの神話について、マラ・リン・ケラーは「家父長制以前の物語として再解釈」することを提案しています。
マラ・リンケラーは、冥界の王ハデスによってペルセポネが連れ去られた出来事を「ペルセポネの誘拐とレイプ」と衝撃的な言葉で表現しており、「家父長制時代になって強調されるようになった物語」であると論じています。
マラ・リン・ケラーの主張は、エコフェミニスト思想家のシャーリーン・スプレトナクの著作に依拠しています。
『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』には、シャーリーン・スプレトナクの論文「エコフェミニズムーわたしたちの根と開花」も収録されています。

エコフェミニズムにいたる第二の道は、一般に女神の宗教とされる自然を基盤とする宗教にふれることである。1970年代半ばに、ラディカル・フェミニストは歴史的、人類学的源泉を通して、女性を崇敬し、自然そのものを「知識の源」としているように思われる宗教を発見するという心躍る経験をした。(シャーリーン・スプレトナク「エコフェミニズムーわたしたちの根と開花」、32-33頁)

それが実際に始まったのは、ユーラシアのステップ地帯の遊牧民がインド・ヨーロッパ語圏を侵略し、ヨーロッパ・中近東・ペルシア・インドにあった、自然に基盤をおき女性を崇拝する女神宗教にかえて、自分たちの破壊的な男性神をもちこんだ紀元前4500年ごろのことである。かれらは、神聖であるとされ崇敬されていた女神を、地球の生命のプロセスから遠く離れた、全能の、天の神の領域へと移したのである。(同、41頁)

シャーリーン・スプレトナクは、古代の女神信仰を再評価することによって、「神をわたしたちに内在する存在」として発見し、女性と自然の絆を回復し、女性のエンパワーメントにつながると主張しています。
このようなシャーリーン・スプレトナクとマラ・リン・ケラーの立場は、「ラディカルな文化フェミニズム」に分類できるでしょう。
フェミニズムの思想・運動の中では、女性と自然の結びつきを否認する立場と、女性と自然の結びつきを積極的に肯定する立場で大きく主張が対立しており、イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の記事の中で、詳しく比較・分類を図示していますので、ご参照ください。


マラ・リン・ケラーが「家父長制以前の物語として再解釈」したデメテルとペルセポネの物語は、要約すると次のような筋書きです。

デメテルとペルセポネは美しい大地に恵まれ、ともに作物が育つのを見守っています。ある日ペルセポネは、苦しんでいる死者たちの魂を慰めるため、自ら冥界に通じる穴に入り、死者の祭儀を行います。一方、デメテルはペルセポネの不在による悲しみから、作物が育たなくなります。ペルセポネは地上へ戻ることを決心し、ペルセポネの帰還によって、畑の作物が成長します。
以後、ペルセポネが死者の国へ行く時には、彼女のいない寂しい季節をデメテルと人間が分かち合い、春になってペルセポネが母のところへ帰ってくると、活気づくのです。

マラ・リンケラーが再解釈したデメテルとペルセポネの物語には、冥界の王ハデスにペルセポネが突然連れ去られるエピソードが削除されています。

本稿でわたしが訴えたかったのは、初期には母親を中心とする画期的な時代があったのが、その後母と子の分離と誘拐が行われ、この古代の生のあり方が死んだことを思い出してほしいということである。その時代のあとに、わたしたちが家父長制と考えている時代が長期間続いてきた。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、101頁)

マラ・リンケラーが言う「母親を中心とする画期的な時代」とは、「母権の時代」を指していることは明らかです。
したがって、ハデスによってペルセポネが連れ去られた物語は、母権(母系)の共同体に対する、父権(父系)の侵略を反映したものだとして解釈しています。
このようなマラ・リン・ケラーの議論の前提には、ヨハン・ヤコブ・バハオーフェン(1815年-1887年)の『母権論』(1861年)があると言えます。
スイスの法学者であったバハオーフェンは、古代法の研究から、ギリシャ神話における女神に着目して、女性が権力を有した「母権性」が古代社会で存在したと主張しました。
バハオーフェンの著作は、その後の古代の女神研究に大きな影響を与えましたが、人類学におけるフィールドワーク調査が進むにつれ、小数民族などの「未開社会」にも完全な母権制は存在しないことが明らかになり、母権制の実在について疑義が呈されています。

考古学においては、新石器時代の偶像として、女性像が多く発掘されており、その中には妊娠した女性を象ったものも見られます。
この女性像から、「生命を生み出す女性」を女神として崇めていたことが推測できますが、女神を崇拝することと、女性が権力を有する社会制度であることは、全く別の問題だと言えます。
女神を崇拝していたとしても、現実の女性の地位が高いかどうか、共同体の中で尊重されていたかどうかは分かりません。
先史時代の女神像は、女神を崇拝していた証拠と言えるかもしれませんが、母権制を示す証拠とは決して言えないのです。

シャーリーン・スプレトナクやマラ・リン・ケラーの議論は、バハオーフェンの母権論を受け継ぎ、古代の女神崇拝の事実と、母権制を混同しており、女性を敬い、自然と調和した平和な時代があったと、先史時代を理想化しています。
先史時代における母権社会の実在が不明にもかかわらず、平和な母権社会を、戦闘的な父権社会が破壊・征服したという議論は、推論に推論を重ねた主張であると言えます。
先史時代の女性像が、平和な母権社会で作られたという証拠は全くないため、戦闘的な父権社会で作られた可能性だってあるのです。
そもそも、女神を象ったとされる女性像が、誰が何の目的で作ったものかをはっきり示す証拠はないのであり、女神を象ったという説も、推論に大きく拠っています。
日本においても、妊娠した女性を象った縄文時代の土偶が東北地方から出土されていますが、女神を象ったという説だけでなく、死亡した妊婦を埋葬する時に供えた、葬送儀礼の道具だったという説もあります。

シャーリーン・スプレトナクやマラ・リン・ケラーは、女神を崇拝する母権社会、男神を崇拝する父権社会という二元論で論じていますが、女神を崇拝する父権社会があったと考える方が自然ではないでしょうか?
古代ギリシャや古代ローマは、極端な男性中心的社会でありながら、多くの女神を崇拝しており、まさに女神を崇拝する父権社会であったと言えます。
ギリシャのアテナイは、その名前の通り、女神アテナを守護神として崇敬していました。
女神アテナは、常に武装した女性として描かれ、英雄たちを守護する戦いの女神であり、知恵の女神でもあります。
父権社会が女神を守護神とすることは、母のごとく男性たちを守る女神アテナのイメージを考えれば、矛盾なく説明できます。
女神アテナは、男性の側に立った、男性のための女神であり、現実の女性たちの地位や生活とはかけ離れた存在だったと言えるでしょう。

夫と子を持たない女神アテナと比較して、農耕を司り、実りをもたらす女神デメテルは、子を産み育てる母親の象徴であり、女性の側に立った、女性のための女神であったと言えます。
古代ギリシャにおいて、デメテルに捧げられた祭儀は、上述の「エレウシスの秘儀」だけでなく、「テスモフォリア」がありました。
古代ギリシャの各地で行われていた「テスモフォリア」は、きわめて古い祭儀であり、秋の播種の時期に3日間にわたって開催され、市民の妻たちが参加しました。
女性たちは、家を出てアクロポリスのふもとの集会所に集まり、豊穣と子授かりを祈願したと言われています。
男も女も参加した「エレウシスの秘儀」とは異なり、「テスモフォリア」は女性だけが参加しました。
「エレウシスの秘儀」が「死」を意識する祭儀だったとすれば、「テスモフォリア」は大地の実りと重ねて、自分たちの生命を育む力を意識し、女性への敬い、女性同士の相互扶助を強める祭儀だったと推測できます。


以上のように考えると、冥界の王ハデスにペルセポネが連れ去られた物語は、「ペルセポネの誘拐とレイプ」として解釈し、家父長制時代に挿話されたと勝手に貶めるのではなく、古代の女性たちの人生や死生観を反映した物語として、そのまま受け入れるべきだと思います。
前項で、この物語の解釈を検討した通り、冥界に突然連れ去られるということは、「死」の象徴であると考えて、突然訪れる不条理な死の悲しみを描いた物語として解釈する方が、わたしは自然であると考えます。

マラ・リン・ケラーが再解釈した物語では、ハデスを排除しているため、ペルセポネが自ら死者の国へ赴きますが、これは現実的に考えれば「自死」にほかならないため、非常に不自然に思えます。
古代の人々にとっても、現代のわたしたちにとっても、「死」は自分の意志に反して、突然訪れる不条理なものと考える方が自然で、真実味があります。
古代の社会は、マラ・リンケラーが論じているような楽園や理想郷ではなく、妊産婦や乳幼児の死亡率がきわめて高く、平均寿命も短く、飢えや病、猛獣や災害、土地をめぐる争いなどで「死」が身近な極限状況だったと考えるべきです。

デメテルとペルセポネの物語を現実に即して解釈すれば、ハデスに連れ去られた時点でペルセポネは亡くなったと言えるでしょう。
娘を突然亡くした母デメテルの嘆きは深く、死んだ娘を蘇らせることはできないため、養子を育てることに決めるのです。
デメテルが嘆きながら放浪した旅は、娘の死を受け入れるための「喪」の期間を表現していると言えます。
デメテルは養子を育てますが、実母が邪魔したことにより、養子の命も失ってしまいます。
実母の立場からすれば、養母が自分の子に対して、恐ろしい虐待をしているように見えたのです。
当時でも、養子を育てるにあたって、実母と養母の間の不信やトラブルが多かったため、神話の中に投影されたのかもしれません。
デメテルはその後、ゼウスの計らいによって、ペルセポネを取り戻します。
これは、すでに述べたとおり、最初に亡くなった娘が蘇ったというよりも、デメテルが長い「喪」の期間を終え、再び新しい子を産んだことの比喩であると考えられます。
このように解釈すると、デメテルとペルセポネの物語を通して、古代の女性たちが実際に体験した、我が子を喪う耐えがたい悲しみ、養子を育てる難しさ、一人目の子の死を乗り越えて、再び子を産む強さ、たくましさを感じるのです。

マラ・リン・ケラーは、「エレウシスの秘儀」に着目し、デメテル信仰を積極的に評価することで、現在の女性を敬い、女性と自然の絆を回復させることを目的としています。
そのような目的は理解できますが、デメテルとペルセポネの物語を再解釈するとして、勝手に筋書きを大きく変えてしまうことは、もはや二次創作であり、再解釈ではなく誤読であると言えます。
古代の女神信仰や祭儀を紐解くことで、女性のエンパワーメントにつながるインスピレーションを得るのは良いと思いますが、古代の物語に対する敬意が必要であり、勝手に貶めたり、物語を捻じ曲げてはならないと思うのです。
デメテルとペルセポネの物語からは、当時の女性たちが敬われていたとか、権力を有していたとかは一切分かりませんが、自分たちの「生と死」に向き合い、必死で生きていた現実が伝わってきます。
ありのままのデメテルとペルセポネの物語の中に、古代の女性たちの真実が表現されているのだと思います。





参考:アポロードロス『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波書店、2015年)
アープレーイユス『黄金の驢馬』(呉茂一・国原吉之助訳、岩波書店、2013年)
庄子大亮「古代ギリシアにおける女神の象徴性:アテナ、アルテミス、デメテルを例に」(西洋古代史研究、2011年)

2018/03/03

支倉凍砂「狼と香辛料」

狼と香辛料
  • 発売元: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/4/25

支倉凍砂『狼と香辛料』(KADOKAWA、2006年)を読みました。
「狼と香辛料」は、中世ヨーロッパをモデルとした架空世界を舞台に、行商人である主人公クラフト・ロレンスと、豊作を司る狼神ホロが出会い、ホロの生まれ故郷を目指して共に旅をする物語です。
2018年現在、長編と短編集合わせて19巻まで刊行されており、アニメ化、漫画化も行われている人気作品です。

「狼と香辛料」シリーズのテーマは、整理すると次の2点となります。

1.中世ヨーロッパにおける商業活動
2.キリスト教と非キリスト教(異教)の対比

まず、<中世ヨーロッパにおける商業活動>については、主人公ロレンスが行商を生業とする青年であることから、新しい商人階級の台頭による貨幣経済の発展、同業組合、定期大市、都市内部の権力抗争などが描かれています。
トールキン『指輪物語』をはじめ、中世ヨーロッパをモデルとした物語は、剣や魔法を武器に戦争を繰り広げる大きな物語であることが多いです。
しかし「狼と香辛料」は、商人・職人・ブルジョワなどの都市に暮らす人々や、農民などの働く人々に光を当てており、その文化や生活を生き生きと魅力的に描き出しています。

次に、<キリスト教と非キリスト教(異教)の対比>については、キリスト教化以前の神々に対する信仰がしだいに失われていく様子を、ヒロインである狼神ホロの眼差しを通して、悲しく描いています。
「狼と香辛料」シリーズが進むにつれ、キリスト教伝道という表向きで、実際は経済的・政治的利害から、異教(非キリスト教)の住民たちを陥れ、時には軍事力を用いて征服しようとする貪欲な聖職者や、世俗的な教会権力についても、物語の中で描き出しています。
わたしは、ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々・精霊物語』を読んで、古代ローマや古代ゲルマンの神々が、キリスト教化の過程で「悪魔」へと変化させられたり、聖人・聖遺物崇拝に習合して、民話や伝説の中でかろうじて保存された、という歴史に関心を持ちました。
この「狼と香辛料」シリーズは、娯楽小説でありながら、キリスト教世界が拡大し、非キリスト教世界の文化が侵略・征服されていくという難しいテーマを、物語の中に上手に織り込んでおり、大変興味深いです。



来る年も来る年も麦を育ててきたこの村の者達も、せいぜい長生きして七十年なのだ。
むしろ何百年も変わらないほうが悪いのかもしれない。
ただ、だからもう昔の約束を律義に守る必要はないのかもしれないとも思った。
何よりも、自分はもうここでは必要とされていないと思った。
東にそびえる山のせいで、村の空を流れる雲はたいてい北へと向かっていく。
その雲の流れる先、北の故郷のことを思い出してため息をつく。(支倉凍砂『狼と香辛料』、13頁)

行商人のロレンスは、ヨーレンツにある山奥の村に塩を売り、テンの毛皮を仕入れ、おまけに麦を譲り受けて山を下り、麦の大産地パスロエ村を訪れました。
パスロエ村の麦はかつて、重税を課されるせいで値段が高く、市場で不人気でしたが、ロレンスはパスロエ村の麦を買い、地道に薄利で売っていました。
ロレンスが長年取引してきたパスロエ村は、現在は新しい領主エーレンドット伯爵の管理のもとで、麦の収穫高が上がり、より豊かになりつつあります。

ロレンスがパスロエ村を訪れた時、村の伝統である収穫祭がちょうど行われていました。
パスロエ村では長い間、豊作を司る狼神ホロが祀られており、キリスト教化した現在でも、狼神の収穫祭を盛大に行い、昔の狼信仰の名残をとどめています。
パスロエ村の人々は、最後に刈り取られる麦の中に、豊作の神が宿っていると信じていました。

パスロエ村郊外で、ロレンスが野営していた夜、荷馬車の荷台に美しい女性が出現し、自分はホロであると名乗ります。
彼女の身体には狼の耳と尻尾があり、豊作の神ホロの化身だったのです。
豊作の神が麦の中に宿るという言い伝えは本当で、いつもは最後に刈り取られる麦の中に宿っていましたが、今回は最後に刈り取られる麦よりも多くの麦が、ロレンスの荷馬車に積んであったため、ロレンスの麦に宿り、村から逃げ出すことに成功したのです。

狼神ホロは数百年の間、パスロエ村の麦の実りのために心を尽くしてきましたが、近年は新しい領主が新しい農法を指導し、生産性をますます高めており、もはやこの村で豊作の神は必要とされていないことを感じていました。
そのため、ホロは豊作の神としての役目を捨て、村を立ち去ることを決意したのです。
ホロは、生まれ故郷である北の大地に帰りたいと願い、ロレンスの旅に同行することを決めます。
ロレンスは、ホロを旅の道連れとして受け入れ、再び行商の旅を続けます。

中世ヨーロッパの世界:森林・動物


前述の通り、『狼と香辛料』は中世ヨーロッパをモデルとしています。
中世の千年間の歴史で、やがて近代の主役となる商人とブルジョワが台頭してきた、中世末の世界を描き出していると言えます。
より時代を特定すれば、14世紀頃が舞台ではないかと思います。
その理由は、14世紀に為替手形システムが商人の間でしだいに広がり、『狼と香辛料』においても、ロレンスが為替手形の仕組みを説明する場面が描かれているからです。

中世ヨーロッパの世界を想像するとき、現代のわたしたちが思い描く自然の風景と、当時の実際の生物分布はかなり違っており、地域的特色もよりはっきりと分かれていました。
人間は、森林を全面的または部分的伐採を行って、開墾し、羊や家畜を放して、森林を破壊していきました。
地中海周辺やイベリア半島の森林は、中世を通じて羊によって食い尽くされ、現代に見られるような一面の草原に変わったと言われています。
残された森でも、プラタナスやポプラなど、人間が意識して植樹したため、森林を構成する樹種が変わってしまったのです。
人間によるさまざまな働きかけが、自然の森や動物たちに根本的な変化を与え、中世の西ヨーロッパにはありふれた生物種たちの多くが、現代では絶滅したか、数を非常に少なくしました。

当時、どこにでもいた動物たちと言えば、狐、穴熊、野兎、雉、ノロ鹿(小型の鹿)、野生の山羊などです。
ビーバーは、カロリング朝時代(751年~987年)ではすでに数を減らしており、ドイツ以外の地域では稀だったと言われています。
家畜牛の先祖である野生の牛オーロックは、1627年に絶滅したと言われています。
16世紀にポーランド大使を務めたオーストリア人のヘルベルシュタインは、ポーランドで生息していたオーロックについて見聞録を残していますが、当時ですらあまりにも少なく珍しい動物でした。
オーロックは、中世の狩猟手引き書や文学作品にも登場することが少なく、中世初期の頃にはすでにほとんど見られなくなっていたと考えられています。

熊が数を減らしたのは、農民たちや山岳民たち、とりわけ大領主たちの狩の獲物にされたためです。
領主たちは、熊狩り用に訓練したマスティフ犬を飼い、熟練した腕で槍を振りました。
猪は食用としても好まれたため、領主たちによる頻繁な攻撃にさらされ、聖ルイ王の弟アルフォンス・ド・ポワティエは、十字軍遠征に備えて二千頭の猪を殺させ、塩漬け肉にさせたと記録されています。

狼は、群れを作って集団で行動し、身軽で敏捷、数日間で何百キロも移動することができ、長く寒い冬も動き回ることから、中世には際立っており、肉食獣の中でも王者でした。
ブルターニュ半島、オーヴェルニュ、シチリア、カンタブリア(イベリア半島北部)、メセタ高地(イベリア半島中央部)、ハルツ山脈(ドイツ中央部)などは、狼がたくさん生息する地域として有名でした。
ブリテン島だけは、海に隔てられていたため、中世を通じて狼は生息していなかったと言われています。
狼がいかに人々の日常生活に溶け込んでいたかは、中世の文学や民間伝説が伝えています。
12世紀半ばに中世ラテン語で書かれた動物叙事詩『イセングリムス』(Ysengrimus)において、主人公のイセングリンは狼です。
『イセングリムス』では、猟師は狼を、力と知恵・勇気を備えた優れた獣として称えています。
民間伝説では、狼は子供や女性、老人を襲って食べる恐ろしい獣として語られ、人狼の伝説まで伝えられています。
狼の群れが人里近くまで移動して、家畜を襲ったりするのは、田園が荒廃した危機的状況のときで、15世紀にはパリの町なかに狼が迷い込んだり、パリ近郊に出没したことが記録されています。

熊や狼以外の肉食獣では、もともとヨーロッパに生息していた野生の猫、大山猫がいましたが、狼が王者であるかぎり、山猫の生息圏は限られていたと言われています。

狼の伝説


人狼についての最古の文献の一つは、古代ローマ時代にペトロニウスによって書かれた『サテュリコン』です。
『サテュリコン』では、一人の兵士が月夜に墓で狼に変身し、どこかの農園の家畜を襲おうとしたところを反撃に遭い、逃げ帰って人間の姿に戻ったという逸話が書かれています。
ギリシア神話のアルカディア王リュカオンは、ゼウス神を試してみようとして、わが子を殺して、調理して食べさせます。
ゼウスはただちにそれを見抜いて、リュカオンを罰し、リュカオンは狼となって荒野をさまようのです。
人狼伝説は、『サテュリコン』のように定期的に狼に変身する人間の物語と、リュカオンのように永遠に狼となり、二度と人間には戻らない物語があります。

定期的に狼に変身する物語には、狼の毛皮をまとって、自分の意志で変身する物語も多く伝えられています。
中世の『メリオンのレ』では、狼に変身して人間に戻れなくなった男が、狼軍団を率いて人間たちに立ち向かうという逸話が語られています。
その影響を受けてか、デュマの『狼のチボー』は、悪魔と契約して狼となった人間の物語で、狼となったチボーは乱暴な領主に対して復讐するため、狼の群れを率いて領内を荒らし回り、最後には狼の毛皮を脱いで人間に戻ります。

狼の毛皮をまとって、狼の知恵と獰猛さを手に入れるという伝説は、ゲルマン社会の男性が狼試練、熊試練によって、儀式的な変身を行った歴史がルーツだと言えます。
グリムの「熊の皮を着た男」では、熊の毛皮を着て、身体を洗わず、髪も爪も切らずに数年間過ごす試練に服する男の物語が語られていますが、このような動物試練が古代では行われていたかもしれません。
熊や狼の凶暴さを身につけて凶暴戦士となり、試練の期間が終われば普通の人間に戻りますが、戦争になれば凶暴戦士として勇猛に戦います。

人間が獣に変化する人獣伝承は、世界各地で伝えられており、その地域でもっとも恐れられる獣がモチーフとなっています。
アフリカでは人ライオンや豹男がいて、ヨーロッパでは人狼、熊男、中国では人虎、東南アジア沿海部では人鰐、東南アジア海洋部では人鮫となるのです。
日本では、狼が鍛冶屋の婆を食い殺して、婆になりすましていたという「鍛冶屋の婆」伝承があります。
「鍛冶屋の婆」の類話である「弥三郎婆」や「崎浜の婆」の異伝では、狼だと思って婆を殺したが、いつまでたっても死体が狼にならないので不安になるという話があり、狼が婆を食い殺したのではなく、女性が異類(鬼、獣)に変身する話として解釈することができます。
しかし、これらの人獣が神として崇拝されることはなかったと言われています。


ヨーロッパで非常に親しまれている「赤頭巾」や「狼と七匹の仔山羊」は、人狼ではなく、現実の獣として恐れられていた狼が語られています。
北欧では、フェンリル狼が神々にとっての最大の敵として描かれ、テュールが片腕を失って鎖につなぎますが、世界の終わりラグナレクのときに解き放たれて、オーディンを呑み込むのです。
また、双子の狼スコルとハティが、天空で太陽と月をそれぞれ追いかけており、ラグナレクのときには、スコルは太陽に追いついて食べてしまい、ハティは月に追いついて食べてしまいます。
このように、北欧では狼が太陽・月を食べるという日食・月食神話があり、世界の終わりをもたらす天災の象徴として狼が語られています。
現在、北欧神話として知られている物語は、キリスト教化以前のゲルマン神話であることから、古代ゲルマン社会において、どれほど狼の害が多く、人々から恐れられてきたか分かります。

ロシアの『原初年代記』や『イーゴリ戦記』では、古代ロシアの王たちは夜ごと狼となって、ツンドラを走ったと伝えられています。
蒼き狼からモンゴル族が生まれたとする伝承は、トルコ=モンゴル族に広く伝えられる伝承の一つで、『元朝秘史』が有名です。
匈奴や突厥など、モンゴル系の諸族には狼を祖とする伝承がいくつも伝わっています。
ローマ建国神話のロムルスとレムスが、牝狼に育てられたという伝承も同じ系譜であり、これらは始祖信仰すなわちトーテム的な信仰です。
恐ろしい猛獣を「祖先」として考えることによって、猛獣はその部族を守る神となり、その猛獣を祖とし、祖先である神に守られる自分たちは、特別に勇猛な戦士集団であると考えるようになります。
このように、人々を襲う神が部族の守り神とすることは、野生の動物たちを理解し、共生するための認識方法だったと言えます。
世界には、白鳥始祖、狼始祖、蛇始祖の伝承など、さまざまな動物始祖信仰があります。

ロシアのフセスラス公が夜ごと狼になって凍土を走ったのは、戦士たちの長である勇猛さを表す神話です。
猛獣の残虐さ、凶暴さを身につけた、選ばれた勇猛な戦士であることは、戦を勝ち抜くためには必要なことだったのかもしれません。
しかし、戦争が終わり、平和な社会を統治することが求められるようになると、凶暴な武将のままでは、人々から恐れられ、遠ざけられる存在となってしまいます。
そのため、狼や熊、虎、鰐、鮫などのトーテム獣(祖先獣)が、すべてを取り仕切る神、その地域の最高の神として祀られることはなかったと考えられています。
したがって、狼を自分たちの「祖先」として祀り、守り神として敬した人々は、農業生産の拡大やさまざまな勢力争いの結果、トーテム的な信仰をしだいに失っていったのでしょう。
国の建国神話や部族の語り部が伝えた英雄たちの神話は、トーテム的な信仰の喪失とともに、庶民の間で恐ろしげに語り伝えられる人狼物語へと変容していったのではないでしょうか。



『狼と香辛料』では、巨狼ホロは豊作を司る神として祀られていました。
ロレンスと旅する時は、若く美しい女性に変身しますが、ホロの本性は巨大な牝狼であり、非常に長命で、優れた知性を持ち、人語を話します。
前述した狼伝説と比較して考えると、ホロの豊かな知恵は過去の多くの伝承・伝説と共通していますが、豊穣の神という役割は独特で、過去の類例がほとんど無い、珍しい設定だと思います。
豊穣の動物神としては「牛」の方が代表的であり、インドでは聖牛として大切にされ、エジプトでは牛は豊穣の女神ハトホルやイシスの化身とされていました。

国の祖となる英雄が捨てられて、牝狼に育てられるという物語は、ローマの建国神話やモンゴルの「蒼き狼」の伝承など、数多く語り伝えられています。
人間の乳飲み子を育てた牝狼は、知恵と獰猛さの象徴としてだけでなく、母性の象徴でもあると言えます。
『狼と香辛料』のホロは、知性のある牝狼であることから、獰猛で凶暴な獣としてではなく、母性の象徴として見なされたのかもしれません。
母性を表す存在として考えると、母性と豊穣力は密接に結びついているため、牛女神ハトホルやイシスと同じく、牝狼ホロも豊穣を司る女神として祀られたと解釈することができます。



中世ヨーロッパの世界:貨幣経済の発展


※ネタバレ注意※

『狼と香辛料』では、銀貨の改鋳に関わる大きな取引が描かれています。
ロレンスは、若い行商人ゼーレンから、トレニ―銀貨が近々改鋳され、銀の純度が高くなるため、銀貨を買い集める取引を持ちかけられます。
純度の下がった古い銀貨を大量に集めて、純度の上がった新しい銀貨と交換すれば、差額分が儲かるという仕組みです。
ロレンスはゼーレンの儲け話に乗ったふりをして、商業の発展した港町パッツィオで、銀貨の純度を上げて改鋳されるという情報の真偽を確かめます。
そして、銀貨の純度を上げて改鋳されるという情報は嘘であり、実際は銀貨の純度を下げて改鋳される予定であることを突き止めるのです。
銀貨が悪鋳されると、その銀貨の信用が低下し、価値が下がります。
それでは、なぜゼーレンは嘘情報を広めて、銀貨を買い集めさせようとしたのでしょうか?

ゼーレンに詐欺を指示していたのは、パッツィオで麦を中心とした農産物取引を行うメディオ商会でした。
メディオ商会が、ゼーレンら手下たちを使って大量にトレニー銀貨を集める目的は、トレニ―国王に取引を持ち掛けることです。
財政が逼迫しているトレニー国王は、現在流通しているトレニー銀貨を鋳潰し、地金として使用し、銀の純度を下げて新しい銀貨を発行する計画です。
銀の純度を下げれば、同じ銀の量からより多くの銀貨を発行することができます。
しかしメディオ商会が、王政府よりも早く、市場に流通している全てのトレニー銀貨を回収すれば、新しい銀貨の地金が不足します。
メディオ商会は、集めた銀貨と引き換えに、国王から関税設定権などの有益な特権を引き出そうと考えていたのです。
さらに、メディオ商会を操っていたのは、エーレンドット伯爵であり、麦の大産地を領地に持つ伯爵は、麦の取引相手である商会と協力して、麦に関する様々な関税の撤廃を目論んでいました。
トレニ―銀貨を悪鋳するという王政府の極秘情報を、メディオ商会に流したのは、エーレンドット伯爵であることは明らかで、現代で言えばインサイダー取引に当たると言えます。
このような、トレニ―銀貨の改鋳をめぐるマネーゲームに関わり、行商人ロレンスはどのような役割を演じたのでしょうか?
詳しくは、ぜひ小説を手に取って、読んでみてください。



中世ヨーロッパにおいて、11世紀より以前は、大多数の人々にとって通貨はほとんど無縁の存在でした。
当時、取引には「銀」が使用されていましたが、それは「貨幣」という形ではなく、銀そのものとして、農産物などと同じように、重さを量って取引されていました。
したがって、すでに貨幣の形になっているものは、切り刻んだり、鋳潰して使用されたのです。

古くからローマ帝国の植民地であった地域の貴族や、彼らと取引していた商人たちは、「ソリドゥス金貨」を使用していました。
『狼と香辛料』の中に登場するトレニ―銀貨は架空の銀貨ですが、この物語と同じく、ソリドゥス金貨もしだいに悪鋳されていった歴史があります。
ソリドゥス金貨は、大帝と呼ばれたコンスタンティヌス1世によって、4世紀前半に鋳造された金貨であり、もともとは純度95.8パーセントの金貨でした。
この金貨の重量と純度は、西ローマ帝国滅亡後も、東ローマ帝国の皇帝によって守られたため、貨幣の信用度が非常に高く、数世紀にわたって各地で使用されました。
しかし、東ローマ帝国の財政が悪化したため、このソリドゥス金貨もしだいに小さくなり、金の純度も悪化して、信用を低下させていきます。
11世紀のマンツィケルトの戦いで、セルジュール朝トルコに敗北した後は、金の純度がさらに減って、銀の含有量が50パーセントを超えるまでになり、ソリドゥス金貨は姿を消していったのです。


中世ヨーロッパの銀貨は、ローマ時代のデナリウス銀貨が引き続き使用され、カール大帝と呼ばれるシャルルマーニュ(在位768年-814年)によって重さ・刻印が改良されて、ドゥニエ銀貨と呼ばれるようになります。
1ドゥニエ銀貨は、オート麦50リットルまたはパン12個に相当する値打ちがあったと言われており、農民など庶民の日常生活にはほとんど使われませんでした。
当時の農村では、基本的に自給自足であり、物々交換か、交易自体が行われなかったため、領主が貨幣を鋳造しても、ごく狭い範囲でしか通用しなかったのです。

商人たちは、遠隔地からの品物の仕入れには、7世紀から鋳造されたイスラム世界のディナール金貨や、ソリドゥス金貨の後継である東ローマ帝国のベザント金貨を使用していました。
イスラム製のディナール金貨は、金の純度が高く、当時の国際通貨でした。
商人たちは、ある領主領だけでしか通用しない貨幣ではなく、西欧のどこでも使える、より強く、より安定した銀貨を必要としていました。
そこで、12世紀末のヴェネツィアで「グロス銀貨」が造られ、続いてイングランドの「エステルラン(スターリング)銀貨」、フランスの聖ルイ王による「グロ銀貨」などが造られたのです。

ヨーロッパでは、金の産地はハンガリーのみだったため、独自の金貨を鋳造しはじめるのは11世紀から12世紀以後になります。
イタリアのフィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった諸都市や、イベリア半島のカタルーニャ、カスティーリャ、ポルトガルなどで、イスラム世界やオリエントとの交易で金の備蓄量が増えると、金貨が鋳造され始めます。
フィレンツェの「フローリン金貨」、ヴェネツィアの「ドゥカート金貨」は特に有名で、金の純度が非常に高く、信用度が高いため、西欧で急速に普及しました。
13世紀から14世紀になって、イングランドやフランスなどの王制諸国家も自前の金貨を鋳造し始めますが、フローリン金貨を模した金貨が造られました。

『狼と香辛料』では、ピレオン金貨とヌマイ金貨が二大金貨として登場しますが、これはフローリン金貨とドゥカート金貨をモデルとしていると思います。
作品中で、金の純度が高く「最強の金貨」と呼ばれるリュミオーネ金貨は、イスラム製のディナール金貨をイメージしているのではないでしょうか。


このように、貨幣が普及することによって、商人たちは新しい問題に直面します。
最も大きな問題は、大金を持っての旅の危険、そして通過する地域ごとに異なる貨幣を使い分ける不便などです。
この問題は、14世紀にしだいに広がった為替手形システムによって解決されました。
『狼と香辛料』においても、ロレンスが為替手形システムについて簡単に説明する場面があります。

「しかし、ここからまたヨーレンツに帰るのは骨じゃありませんか」
「そこは商人の知恵です」
「ほほう、興味深い」
「私がヨーレンツで塩を買った際、そこでお金は払いません。私は別の町にあるその塩を買った先の商会の支店にほぼ同額の麦を売っていたからです。私はその支店から麦の代金を受け取らない代わりに、塩の代金を払いません。お金のやり取りをせず、二つの契約が完遂されるのです」
百年以上前に南の商業国で発明された為替のシステムだ。ロレンスも師匠になる親戚の行商人からこれを聞いた時ひどく感動した。ただ、それは二週間ほど散々悩んでようやく理解してからのことだ。目の前の初老の男性も、一回聞いただけでは理解できないようだった。(80頁)

さらに、商人たちの間で、事業の拡大のために、資金を持っている人々に呼びかけて、投資を募る「コンメンダ方式」という手法が広がります。
ヴェネツィアでは、10世紀頃から航海の資金集めにこの手法が行われていました。
商人が出資を呼びかけると、出資者は航海に同行せず、資金をこの商人に託し、帰港を待ちます。
航海から帰ってくると、持ち帰った商品を売り、それによって出資額が返済されるとともに、利益の四分の三が出資者に、四分の一が商人および船員のものになるのです。

陸路による通商は、航海よりも危険が少なかったですが、その場合も「組合」が形成されました。
「組合」の多くは、同じ家族で構成され、同じパンを分け合う人々が資本金を互いに分割し合い、利益の分配は貢献度に応じ、組合員は連帯責任を負います。
組合員のうち何人かに商品の輸送を担当させたり、商取引の人員を都市に配置し、常駐させることもできます。
このような「組合」が発展して、「商会」が出来ていきます。
イタリアの大きな商会は、13世紀末には連帯責任制の支店を各地に作り始めました。
14世紀初め、フィレンツェのバルディ家によるバルディ商会は、25の子会社を持ち、資本金は15万フローリン、年間取引額は90万フローリンに達したと言われています。
フローリンとう通貨単位は、前述のフローリン金貨に由来しており、フローリン金貨は3.5368グラムの純金で、現代の140USドルに相当すると言われています。

14世紀末には、支店相互が連帯責任を持つ「商会」が廃れ、支店の大部分を互いに連携しない自律的組織として、最大の株主は全般的方向性を立てるだけ、という「新しい商会」が隆盛します。
ダティーニ家やメディチ家による「新しい商会」は、14世紀末から15世紀にかけて、プラート、フィレンツェ、ジェノヴァ、ピサ、アヴィニョン、バルセロナ、バレンシア、マヨルカに設立された複合体で、ブルッヘ、ロンドン、パリ、ヴェネツィア、ミラノなどにも代理人を置き、年に20パーセント以上の利益を生み出しました。
ドイツでは、ハンザ商人や北方の大商人たちの多くは、小規模の商社を利用していました。
しかし、ライン地方や南ドイツでは、巨大な複合商社が活躍し、有名なフッガー家のヤーコプ・フッガーは、当時の世界で一番の富豪となりました。
ヤーコプ・フッガーの個人資産は、約200万~300万フローリンだったと言われています。

まず、商人たちは、農民たちが税として納入した物資(小麦、羊毛、ワインなど)の余剰分を貴族たちから買い取って、商いました。
さらに、貴族たちに金を貸し付けてまで、奢侈品を買わせ、その貸付金の担保として、貴族から開拓地の独占権や領地の年貢徴収権、ときには土地そのものまで手に入れたのです。
商人たちは、このようにして手に入れた土地や権利を、より安定性を持った資本として事業を拡大するとともに、社会的地位を増していきます。
貴族たちが失った権力の一部が、新興の市民のものになっていったのです。
伝統的な中世社会は、商人階級の台頭によって、大きく変化していったと言えます。

『狼と香辛料』においても、麦に関する税の特権を手に入れるために画策する大商会が描かれています。
実際に、成功した商人たちは、ときに詐欺まがいの悪どい手法まで使って、さまざまな特権を手に入れ、資本を増やしていったのかもしれません。




アニメとの比較


「狼と香辛料」シリーズは、2008年から2009年にかけてアニメ化されています。
アニメ第1期(2008年)の第1話~第6話が、今回の『狼と香辛料』にあたります。
アニメは、原作小説に基本的に忠実で、丁寧に制作されており、原作を未読でも楽しめますし、原作を読んでいれば、よりいっそう楽しめる良作となっています。

アニメと原作を比較すると、パスロエ村の村人で、狼神ホロを教会に引き渡そうとする人物の描き方に大きな違いがあります。

原作では、パスロエ村の麦を取引する際に、村側の値段交渉人を務めるヤレイという男性が登場します。
値段交渉人のヤレイは、麦の大口取引相手であるメディオ商会に協力し、トレニ―銀貨改鋳をめぐる取引に加担していました。
港町パッツィオで、ロレンスがヤレイと再会した時、ヤレイは農夫とは思えない上等な衣服を着ていました。
パスロエ村の麦畑で、「土と汗に汚れた真っ黒な顔」をしていた農夫ヤレイが、パッツィオでは「つつましい農村生活をしていてはとても手に入らないようなもの」を身にまとっているのです。
このことから、ヤレイが村側の値段交渉人という立場を悪用し、ひそかに私腹を肥やしていたことが伺えます。
身分不相応に上等な衣服は、メディオ商会から賄賂として受け取ったものかもしれません。

ヤレイはロレンスの肩越しに後ろのホロに視線を向けて、後を続ける。
「俺もまさかとは思ったが、昔話の中に出てくるそれとあまりにそっくりだ。村の麦畑に住みつき、その豊作凶作を自在に操れる狼の化身に」
ホロがぴくりと動いたのが分かったが、ロレンスは後ろを振り向かなかった。
「そいつをこっちに渡せ。俺達は、そいつを教会に差し出して古い時代と決別する」(294頁)

メディオ商会が、トレニー銀貨の取引で特権を手に入れることに成功すれば、ヤレイ自身もさらに財をなすことが出来ます。
農夫ヤレイは、大商会と付き合うことで、商人や都市の生活に憧れ、領主に隷従する農民の身分から抜け出したいと考えていたのだと思います。
ホロが教会に引き渡されれば、悪魔または悪魔憑きとして異端審問され、命がないでしょう。
ヤレイは、自分たちの先祖が代々、大切に祀ってきた豊作を司る神を、「古い時代と決別する」ために殺そうとしているのです。
ホロは「豊作凶作を自在に操れる」神であり、ときに「気まぐれ」によって凶作をもたらし、村人を苦しめる「理不尽」な神であると、ヤレイは考えていました。
ヤレイは、ホロに対する信仰を失っているのではなく、むしろホロの豊穣力を信じているからこそ、自分たちの望む実りをもたらさない、自分たちを助けてくれないホロを憎んでいるのです。
初めから、ホロという神の実在を全く信じていなければ、ホロを名乗る女性を憎むこともなく、殺そうと思うこともなかったでしょう。

信仰を持つがゆえに、神を憎むという複雑な感情は、ヤレイだけでなく、過去から現在まで多くの人々に共通する思いです。
それは、現代のキリスト教徒にとっても、古代のイスラエルの民にとっても同じです。
旧約聖書の詩編には、神さまどうしてですか、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という心の叫びが繰り返し綴られています。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(「詩編:第22章2節」、新共同訳)

ホロは、パスロエ村の村人たちを数百年間見守り続けてきて、村人たちの祈りの言葉や祭礼に変化があらわれ、ヤレイが言葉にしたような感情を抱いている者が増えてきたことを敏感に感じていたのでしょう。
だからこそ、前述したように、作品冒頭で「自分はもうここでは必要とされていない」と考え、豊作を司る神の役目を捨て、ロレンスと共に旅に出ることを選んだのだと思います。


アニメ版では、このヤレイという人物は登場しません。
代わりに、クロエという若い女性がパスロエ村の値段交渉人として登場します。
クロエは、麦の取引で毎年訪れるロレンスに、思いを寄せていました。
ロレンスは、クロエを商取引ではまだ未熟な後輩として接しており、クロエの誘いをさりげなく断っていました。
そしてヤレイに代わって、ホロを教会に引き渡そうと追い詰める役割を、クロエが演じています。

前述のように、ヤレイがホロを殺そうとする場面は、神と人との間の問題、人生の不条理と信仰の揺らぎの問題を表していると言えます。
アニメにおいて、クロエがホロを殺そうとする場面は、ロレンスに対する愛情ゆえの憎悪と嫉妬が描かれています。
「二人で成功してこの町にお店を構えましょう」と手を差し伸べるクロエを断り、ロレンスはホロと旅することを選び取ります。
クロエの言葉は、明らかに求婚を意味しており、それを断って、ホロと旅すると宣言することは、ロレンスがホロを伴侶とするという意味で受け取られるでしょう。
クロエは、ロレンスの言葉を聞き、差し出した手を握りしめ、ため息をつき、ロレンスを殺すよう命じます。
アニメ第1話では、パスロエ村において、クロエとロレンスが会話中に、上の空であるロレンスに対して、誰かほかの女性のせいでは、とクロエが問い詰める場面が描かれています。
このように、以前からロレンスに思いを寄せていたクロエにとって、その思い強ければ強いほど、自分の気持ちを裏切られた怒りや憎しみが強まり、ロレンスを殺そうとしたのだと思います。
クロエには、第1話で「どうせ本物のホロなんかいない」と語っており、もともとホロという神の実在を全く信じていないことが分かります。
クロエにとって、ホロは神というよりも、自分からロレンスを奪った女性という感情しかないでしょう。
狼神ホロが、若く美しい女性の姿に変身していたことによって、クロエの嫉妬心がより燃え上がったと言えます。

農夫ヤレイの役割を、クロエという女性に置き換えることによって、原作とアニメでは、ホロの立場に対する印象が大きく異なると思います。
アニメでは、女性の嫉妬や憎悪の感情が強調されることで、信仰のゆらぎの問題は描かれておりません。
原作では、神への不信、信仰のゆらぎの問題を描くことで、神自身が信者たちから離れていく、という人と神の関係の脆さ、悲しさが感じられます。




参考:ロベール・ドロール『中世ヨーロッパ生活誌』(論創社、2014年)
篠田知和基『世界動物神話』(八坂書房、2008年)

2018/01/24

中島敦「山月記」

李陵・山月記 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/12

2016年5月28日の読書会で、中島敦「山月記」(『李陵・山月記』、新潮社、2003年)を読みました。
中島敦(1909年-1942年)は、「弟子」、「名人伝」、「李陵」などで知られている日本の小説家で、33歳の若さで病没しました。
中島は、短い生涯の中で、中国古典を題材とした、漢文調の簡潔で美しい文体の作品を多く遺しています。
「山月記」は、国語の教科書にも採用されており、誰もが一度は読んだことがある名作です。

※ネタバレ注意※

唐の時代、主人公の李徴は若くして進士(上級官吏登用試験)に合格しますが、すぐに官吏を退職し、詩人として名声を得ようと努力します。
しかし、文名は思うように揚がらず、生活は日を追って苦しくなり、李徴は貧窮に堪えかね、妻子のために地方の下級官吏の職に就きます。
李徴が官吏に復職した時、かつての同輩はすでに上級官吏に昇進しており、李徴の自尊心は傷つけられ、ついにある夜、李徴は行方不明となりました。
翌年、李徴の親友であった上級官吏の袁傪は、旅の途中に野生の虎に襲われますが、袁傪を襲った虎は人語を話し、虎は自分が李徴であると名乗ります。
袁傪は虎の言葉を信じて会話を交わし、虎は自分の辛い身の上を語り、人間だった時に作った詩を吟じて、袁傪に伝録を頼みます。
そして、虎の中に李徴が生きているしるしに、即興で自分の心境を詩作して聞かせます。
虎は最後に、自分が行方不明になり、飢え凍えているであろう妻子の生活支援を袁傪に頼み、二人は別れました。


若きエリート官僚がなぜ詩人に転職したのか?


隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自恃ところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔よしとしなかった。(「山月記」、新潮社、8頁)

「山月記」では、李徴が進士に合格した年について、「天宝の末年」と書かれています。
「天宝」は、唐の玄宗皇帝の治世後半の元号で、西暦742年~755年にあたります。
李徴が進士に合格した755年は、安史の乱(755年-763年)が勃発して、反乱軍が長安に迫り、玄宗皇帝が長安を脱出するなど、国内が内戦状態で、非常に混乱していた時代です。
李徴が官吏を退職し、詩業に進み、数年後に再び官職復帰した頃は、玄宗が退位させられ、皇太子・粛宗が即位し、反乱鎮圧にあたっていた時代でしょう。
757年に粛宗は長安を奪還し、都に帰還しますが、反乱はまだ収まっておらず、762年に玄宗、粛宗が相次いで亡くなります。
安史の乱はおよそ10年にわたって続き、長引く内戦によって、皇帝の権威は大きく傷つき、国内は疲弊したと言えます。

李徴は進士に合格して、「江南尉」という江南地方の警察・軍事に関係する官僚となります。
李徴について、現代で言うところの、国家公務員試験に合格したばかりの若いエリート官僚として考えてみましょう。
反政府勢力によって首都が制圧され、政府首脳は都から避難、政治家たちも失脚したり死んでいくとしたら、<官僚として出世する人生>に希望を持てず、転職したくなる気持ちは分かります。
そのような政治的社会的情勢であっても、エリート官僚が<詩人>に転職するというのは、現代ではほとんど考えられないでしょう。
しかし、李徴を含む唐代のエリート官僚たちは皆、詩作の技術に優れており、詩人となるための素養を持っていたのです。

中国の官吏登用試験「科挙」は、有力豪族・貴族出身者による官職の世襲を防ぎ、有能な人材を官僚に登用する目的で、隋の時代に始まり、清の時代まで続きました。
唐の時代において、科挙の進士科(上級官吏)の試験は、「四書・五経」といった儒教の経書の知識を問う試験と、韻文で詩作・論述する「詩賦」の試験によって構成されていました。
「詩」の試験では、指定された題材や題字を用いて、五言六韻十二句による律詩という技巧的な定型の韻文形式で詩作することが求められます。
「賦」と呼ばれる論述試験では、指定された韻字を用いて、政治への意見などを指定字数以上で自由に論述することが求められます。

唐代の科挙は、不定期に実施される「制科」と、定期的に実施される「常科」があり、常科のうち「進士」と「明経」という二つの科がありました。
明経科は、経書の知識を問う試験のみであり、詩作・論述の試験はなかったと言われています。
進士科の試験で、詩と賦が重んじられたのは、古典の教養・知識とともに、言語運用能力の高い人材を求めていたのかもしれません。


中国史において、豊かな豪族・貴族の社交の席上で発達してきた詩歌の文化は、進士科の試験に「詩賦」として導入されたことにより、国家規模の詩作コンクールに発展し、技巧的な定型詩の文化として完成したと言えます。
玄宗の治世で、安史の乱が起こる前の50年間は、李白、杜甫、王維、孟浩然など大詩人の多くが活動しており、唐の文化が極盛期に達したため、唐詩の「盛唐」(710年-756年)時代と呼ばれています。

このように、唐代の上級官吏登用試験の内容が、ハイレベルな詩人養成試験であったことが分かると、李徴がエリート官僚から詩人に転身をはかることも、自然な流れだと言えます。
実際に、盛唐期を代表する大詩人の一人である王維(701年-761年)は若くして進士に合格し、官吏として高い地位にのぼりました。
同じように、若くして進士に合格した李徴は、自分の詩作のレベルの高さについて、非常に強い自負を持っていたことだと思います。
そのため、「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そう」と考えたのでしょう。



李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?


李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。(14頁)

官吏を退職し、ひたすら詩作にふけった李徴でしたが、詩人として名を成すことはできませんでした。
李徴がなぜ詩人として成功しなかったのか?、と考えることによって、李徴がなぜ虎と化したのか?、という謎が明らかになります。
なぜなら、もし李徴が詩人として名を成していたら、虎と化すこともなかったであろうからです。

袁傪は、李徴の詩について「第一流の作品となるのには、何処か欠けるところがある」と評価しています。
李徴と同年に進士に合格し、上級官吏に出世した袁傪は、李徴と同等か、それ以上の高い詩作レベルを持っていると言えます。
その袁傪が、李徴の詩を「第一流の作品」ではないと評価するのであれば、他のエリート官僚や知識階級人たちも同じ評価をすることでしょう。
人間であったとき、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔よしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。(16頁)

李徴は、自分が虎に変身した原因について、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であると語ります。
自尊心と羞恥心について言う場合、普通は<尊大な自尊心>と<臆病な羞恥心>と表現しますが、李徴は「自尊心」に「臆病な」、「羞恥心」に「尊大な」という、意味としては反対の形容詞を用いています。
中島敦は、「自尊心」と「臆病」、「羞恥心」と「尊大」という反対の意味の言葉をあえてつなぎ合わせ、わざと矛盾を生じさせることによって、李徴の内面の複雑な感情を簡潔に表現したと言えます。
このような表現は、「形容矛盾」または「撞着語法」と呼ばれており、共和政ローマ時代の詩人カトゥルスの「われ憎み、かつ愛す」(『詩集』85番より)という詩句が有名です。

李徴は、「己の珠なるべきを半ば信ずる」すなわち自分の才能に強い自負を持ちながら、「己の珠に非ざることを惧れる」という、自分の才能に確信がもてない不安を感じています。
強烈な「自尊心」と並立するほどの強い「惧れ」が、李徴の言う「臆病な自尊心」なのだと思います。
そして、李徴は「己の珠に非ざること」=「才能の不足」が明らかとなることを「惧れ」ていたため、師に教えを仰いだり、詩友たちとの交流を避けるようになりました。
李徴が、周囲の人々から「倨傲」「尊大」と見られる態度をとっていたのは、実は自分の「才能の不足」を隠すための虚勢だったのです。
自分の強い「惧れ」を隠すための強烈な虚勢が「尊大な羞恥心」だと言えます。

「羞恥心」は本来、自尊心を前提として生まれる心情です。
若くして進士に合格した李徴の「自尊心」は、思うように文名が揚がらないことで傷つけられ、自分の才能に不安を感じ、生活の苦しさから焦りや恐怖が大きくなり、その恐怖心の裏返しから、同輩たちをより見下す振る舞いをしたのでしょう。
李徴は、同輩たちを見下せば見下すほど、彼らの官位よりも自分の官位が劣ることに耐えられず、「尊大な羞恥心」ゆえに誰にも弱みを見せることが出来ず、ついには追い詰められて、詩業も官職も妻子も捨てて出奔してしまったのだと思います。

出奔した李徴が虎に変身したという物語は、知識階級としての身分や生活を全て捨て去り、路上や山林で野宿し、衣食に困れば道行く旅人を襲って略奪する生活に至ったことの比喩として解釈することが出来ます。



李徴が作った詩において、「欠けるところ」とは何だったのでしょうか?
袁傪は、李徴の詩を「格調高雅、意趣卓逸」と感嘆していますが、この評価は、詩作が技巧的に優れていることに対する誉め言葉であり、詩の内容について評価しているわけではないのです。
進士の試験に合格した李徴が、音調が巧みに整った、技巧的に大変高度な詩を作っていたことは間違いありません。
李徴の詩は、<試験の答案>の域を脱せず、人々の心を打つ心情表現や風景描写、李徴の人生経験や思想、信仰などを感じさせる<詩の個性>が欠けていたのではないでしょうか。

盛唐期の最大の詩人、李白と杜甫はそれぞれ全く対照的な詩風です。
「詩仙」と称えられる李白は、道教の思想に共感し、不老長生を願う神仙を理想としており、人生の賛歌を歌い、大らかで明朗闊達、壮大で幻想的な詩風と言われています。
一方、「詩聖」と称えられる杜甫は、憂鬱で悲哀に包まれており、個人的なものにとどまらず、社会全体の苦痛にみちた現実をえぐり出しています。

李白と杜甫は、実は二人とも進士の試験に合格していないのです。
李白は科挙を受験した記録がなく、杜甫は進士科を受験したものの、不合格でした。
同じように、盛唐期を代表する大詩人である孟浩然も、進士に合格しなかったため、官職を得られず、不遇の人生を送りました。
李白や杜甫、孟浩然などの詩業は、<試験の模範解答>をはるかに超えた、<芸術>に到達していたからこそ、人々に喜びをあたえ、人々の苦痛を表現し、現代まで長く愛謡されているのだと思います。

李徴は、若くして進士に合格し、官職に就いてすぐに退職して、詩作に専念したため、人生経験が乏しかったと言えます。
師に教えを仰ぎ、詩友と交流して批評し合えたなら、李徴は自分の詩の「欠けるところ」に気づき、<試験の模範解答>から<芸術>へと、詩業を磨き上げることができたかもしれません。
李徴が進んで師に就こうとしなかったのは、進士に合格していない先輩の大詩人たちに対して、見下すような気持ちがあったからとも考えられます。
李徴は、進士に同じ年に合格した同輩たちを「鈍物」と侮蔑しており、進士に合格していない詩人や知識階級人たちについては、より低く見ていた可能性があります。

李徴は、「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ」と語っています。
李徴が家庭の幸福を尊重し、善き夫、善き父であったならば、芸術的に優れた詩作が出来たでしょうか?
文学や音楽、美術などで歴史に名を遺した芸術家は、家庭の幸福に恵まれない場合が多く、不倫相手の女性と自殺した太宰治のように、家庭の幸福を自ら壊す作家もあります。
芸術家たちは、夫婦の不仲や、不倫、離婚、麻薬中毒、病気などの家庭の不幸を全部、自らの創作活動の糧とし、作品に昇華しています。
したがって、家庭の幸福を守ること、倫理・道徳的に善い行いをすることが、芸術性を高めるために絶対に必要であるとは言えないと思います。

李徴は、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」たから、自分は詩人として成功しなかったと語っていますが、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」た経験を、芸術作品に昇華できなかったことが、人々の心を打つ詩を作れなかった本当の理由であると思います。
また、師や詩友と交流することを嫌ったとしても、それを裏打ちする思想や哲学、世界観があれば、李徴は自らの孤独を芸術作品に昇華できたかもしれません。
盛唐期を代表する詩人である王維は、人間嫌いであったと言われていますが、仏教の信徒として、枯寂の境地に心をうちこみ、仏教の浄土観を詩作で表現しました。

官吏を退職して、世と離れ、人と遠ざかり、妻子を苦しめ、友人を傷つけた人生経験を、李徴が詩作に表現出来なかったのは、やはり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」があったからだと思います。
李徴の自尊心が強ければ強いほど臆病になり、羞恥心が強くなって、自らの孤独や家庭の不幸を見つめることが出来ず、ますます尊大な態度になってしまったのでしょう。

李徴は、官職も妻子も全て捨てて出奔し、旅人を襲って略奪するような野宿生活者に身を堕としてしまいましたが、その情けなさ、恐ろしさ、悔しさを全て詩作の糧とすることが出来れば、人々の心を打つ、人々が涙する作品をこれから生み出すことが出来るのではないか、と思います。


「山月記」のルーツを探る


中島敦の『山月記』のルーツとなった中国の物語について調べてみて、とても面白い知見が得られました。
北宋の時代に書かれた『太平広記』(977年-978年)には、人間が虎になる物語が数多く収録されています。
その中で、『太平広記』427巻に「李徴」という題の物語が収録されており、次のような筋書きです。

隴西の李徴が進士に合格する。
数年後、江南の尉となるが、下級官吏に満足せず、才を鼻にかけて威張り他の役人に嫉まれる。
任期が終わると郷里に帰り、一年余り交際を絶つ。
衣食に困り、呉楚を歴遊し、各地で歓待を受け、選別を貯めこむ。
郷里に帰る途中、病気になり発狂して行方不明になる。
翌年、袁傪は天子の使者として嶺南に行く途中、宿場で虎が出没して人を食う話を聞く。
袁傪が虎になった同年進士、友人李徴と再会する。
虎(李徴)は袁傪と身の上話をし、遺稿、妻子のことを託して立ち去る
使いから帰った袁傪は、虎(李徴)から頼まれた妻子の面倒をみ、後に兵部侍郎に出世した。

隴西の李徴という進士が虎になり、友人の監察御史袁傪と再会し、身の上を語り、妻子の今後を託して別れるという筋書きは、中島敦の『山月記』と同じ物語と言えます。
『太平広記』の「李徴」には、『山月記』では描かれていない、袁傪と李徴の妻子の後日談が語られているのです。
使いから帰った袁傪は、李徴の子供に父が虎となったことを告げて、李徴の妻子の生活を援助をしました。
さらに、袁傪が兵部侍郎に出世したことも語られています。
このように、『太平広記』の「李徴」は、同年の進士でありながら、人生における没落者となった李徴と、立身出世した袁傪の対比を鮮やかに描いた物語であると言えます。
皇族の子で、家柄・才能ともに恵まれた李徴が、なぜ虎になったかについては、運命論的解釈を示しており、虎となった李徴の言葉を通して、運命の悲劇を表現しています。
当時、この小説を読んだ下級役人たちは、栄達者と没落者のテーマに共感し、李徴の悲劇に涙したかもしれません。

しかし、この『太平広記』の「李徴」には、李徴の心情を表現した七言律詩が書かれていないのです。
名島敦の『山月記』が、『太平広記』の「李徴」の物語に依拠しているのは明らかですが、『山月記』の詩はどこが出典なのでしょうか?
清の康熙帝の時代に成立し、唐代の詩を全て載録した『全唐詩』(1703年)の867巻に収められた「李徴」という人物の詩とその序文が、『太平広記』の「李徴」とつながっていると言われています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、次のような序文が付されています。

皇族の子である李徴が天宝15年に進士に合格する。
後に、発狂し、夜に走り出でて、虎と成る。
同じ年、監察御史の李厳が嶺南を旅すると、虎に襲われる。
人語を話す虎の声を聞いて、李厳は虎のことを李徴だと分かる。
虎(李徴)は、虎となった理由を述べ、妻子を託して、詩を吟じる。

このような序文が付されて、李徴の詩が収められています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、「偶因狂疾成殊類」で始まる『山月記』の詩と全く同じものです。
虎となった男と友人の名前が、『太平広記』では「李徴」と「袁傪」であるのに対して、『全唐詩』では「李徴」と「李厳」と書かれていますが、名前が異なるだけであり、同一の物語であると言えます。

明の時代に、陸楫によって編纂された『古今説海』(1544年)の説淵部52巻には、「人虎伝」と題する物語が収められています。
さらに、清の時代の陳蓮塘によって編纂された『唐代叢書』(『唐人説薈』)の6集にも、「人虎伝」と題する物語が収められています。
『古今説海』の「人虎伝」は、登場人物名が『全唐詩』と同じく、虎となった男「李徴」と、監察御史の友人「李厳」との物語です。
一方、『唐代叢書』の「人虎伝」は、登場人物名が『太平広記』と同じであり、虎となった男「李徴」、監察御史の友人「袁傪」との物語です。
この二つの「人虎伝」は、登場人物の名前が異なるだけで、同じ筋書きの物語であり、『全唐詩』の「李徴詩」も入っています。

『太平広記』の「李徴」と比べて、「人虎伝」は文の長さが約2倍に増えており、後世の加筆・修正によるものであると言われています。
『太平広記』の「李徴」と、「人虎伝」の最も大きな違いは、李徴が虎となった理由です。
李徴は、次のように告白しています。

南陽の郊外において、かつて、一人の寡婦と密かに通じていた。
その寡婦の家人は、密かにこれを知って、常に私を邪魔しようとした。
そのため、寡婦と再び会うことが出来なくなり、私は風に乗じて家に火を放ち、その一家数人を尽く焼き殺して、立ち去った。
これを恨みとなすのみである。

かつて李徴は、一人の寡婦と密通し、その一家全員を殺したことが残念でならないと語っており、その罪によって虎になったと解釈しています。
『太平広記』の「李徴」が、運命の悲劇であったのに対して、「人虎伝」は不倫と放火殺人による因果応報譚となっているのです。
したがって、「人虎伝」の作者は、『太平広記』の「李徴」に加筆・修正を加えて、物語のテーマそのものを大きく書き換えてしまったと言えます。
以上のことから、李徴が虎となる物語の系譜を整理し、それぞれの影響関係を示した図表を作成しました。(下表・図参照)



上図で示した通り、中島敦の『山月記』は、虎となった主人公を「李徴」、監察御史の友人を「袁傪」としており、「李徴詩」を収めていることから、『唐代叢書』の「人虎伝」に拠っている可能性が非常に高いと言えます。
そして、中島の依拠した「人虎伝」は、『太平広記』の「李徴」、および『全唐詩』の「李徴詩」をルーツをする物語であることが分かりました。

中島は、「人虎伝」を参照して創作していますが、「人虎伝」における不倫と放火殺人の筋書きを削除して、「人虎伝」とは全く異なるテーマの物語へと書き換えています。
前項「李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?」で述べた通り、『山月記』において、中島は因果応報譚ではなく、芸術の道を極める厳しさ、孤独を表現していると言えます。
虎となった理由についても、『太平広記』の「李徴」のように、ただ運命のなせるわざとしないで、李徴の「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という内面の問題としているところが、中島のメッセージを感じます。

このように、『太平広記』および『全唐詩』の中国の古い物語が、『唐代叢書』の「人虎伝」へと書き換えられ、さらに長い年月を経て、日本の中島敦によって見出されて、新しい命を吹き込まれたということは、現代の読者にとって、奇跡のように幸福なことだと思いました。




参考:小川環樹『唐詩概説』(岩波書店、2005年)
上尾龍介「人虎伝と山月記」(中国文学論集、九州大学中国文学会、1974年)
富永一登 「「人虎伝」の系譜 : 六朝化虎譚から唐伝奇小説へ」(中国中世文学研究、1978年)



2018/01/07

和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1995/09/18

2017年4月14日の読書会で、和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」(坂部恵《編》『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年)を読みました。
和辻哲郎(1889年-1960年)は、『古寺巡礼』(1919年)、『風土』(1935年)などの著作で知られる日本の思想家です。
「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」は、1951年(昭和26年)に発表され、のちに同名の随筆集に収録されました。

応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化してきた。(「埋もれた日本」、岩波文庫、99頁)

このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も反映したものとして取り扱ってよいであろう。(99-100頁)

さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。(100頁)

和辻は、応仁の乱以後(室町時代末期)の民衆が親しんでいた物語から、「キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」を明らかにしようとしています。
和辻が「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする物語の例として取り上げたのは、『熊野の本地』です。
また熊野神社の縁起物語の類話として、『厳島の縁起』も紹介しています。
『熊野の本地』、すなわち熊野権現の縁起物語は、熊野神社に今祀られている神々が、どういう経歴を経てインドから日本へ渡来したかという神話・伝説です。
インドのマガタ国王の宮廷で起こった出来事が『源氏物語』風に物語られています。

女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。(101頁)

この物語では、首なくしてなお嬰児を養った女主人公が熊野の権現となったわけではなく、首なき母親に育てられた太子と、その父と伯父のみが熊野権現となります。
『熊野の本地』の異本の中には、苦難の女主人公自身を権現とする物語もあり、その物語では憐れな新王は、慈悲深い母后の蘇りに成功し、母后を伴って日本へ飛来して、熊野の権現となります。
厳島神社の『厳島の縁起』も同じような筋書きの物語で、『熊野の本地』の類話と言えます。
インドの宮廷には父王とその千人の妃がいましたが、若き新王はさまざまな冒険の後に、遠い異国から理想の王女を連れてきて、自分の妃とします。
新王の美しい妃に、父王の千人の妃たちの憎悪と迫害が集まり、新王の妃は山中に拉致され首を切られます。
ここで、『熊野の本地』と同じく、首なき母親の哺育が物語られるのです。
新王は、遠い地方への旅から帰ってきて、山中で妃の白骨と十二歳になった王子を見出します。
憐れな王子のその後の物語は、『熊野の本地』とは違っています。
『厳島の縁起』では、王子は宮廷に行き、祖父王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討った後、母妃の首の骨を見つけ出して、母妃の蘇えりに成功します。この蘇った妃と、その王子と父王が厳島神社の神々です。

ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。(102頁)

このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。(107頁)


このように和辻は、「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする縁起物語(神話・伝説)を紹介し、「キリシタン渡来」直前に、それを受け容れる素地が室町時代末期の民衆にあったと論じています。
さらに和辻は、新興武士階級の家訓書として『早雲寺殿二十一条』、『朝倉敏景十七箇条』、『多胡辰敬家訓』を紹介して、「近代を受け容れるだけの準備」がすでに出来ていたと論じています。
以上のように、民衆の思想と新興武士階級の思想とを見て、和辻は、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかで、「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想状況」が十分に成立していたと論じています。
したがって、「室町時代の文化」を貶めるのは「江戸幕府の政策に起因した一種の偏見」として、和辻は「室町時代の文化」を再評価しているのです。


熊野の縁起物語は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?


わたしは、首なき母親が子育てをする『熊野の本地』や『厳島の縁起』が、大変興味深かったです。
しかし和辻が、熊野や厳島の縁起物語がキリスト教受容に役立ったと結論づけるているのは、論理に飛躍があると思いました。
当時の熊野神社の信者人口がどれだけいて、どのような職業集団で、そのうち何パーセントがキリスト教徒になったのかを明らかにしなければ、因果関係を立証できないのではないかと思います。

改宗前の信仰が、キリスト教受容に対して影響を与えていたと論じるのであれば、やはり長崎など、もっとも改宗者が多く、キリスト教信仰が盛んだった地域を取り上げるべきだと思います。
熊野や厳島が、キリスト教改宗者が特別多い地域だったとは考えられないので、長崎の寺社の縁起には、熊野のような「苦しむ神、蘇りの神」の物語がなかったので、和辻は取り上げなかったのではないか、自分の結論に都合の良い熊野の縁起を例示したのではないか、と思ってしまいます。

和辻の論証には納得できない点が多かったですが、<改宗前の信仰がキリスト教受容に対して影響を与えたかどうか>、というテーマ設定自体は非常に面白いと思ったので、もっと深く掘り下げた研究があればぜひ読んでみたいです。
和辻が取り上げなかった、たとえば島原の人々は、キリスト教改宗前はどんな信仰を持っていたのか?、キリスト教伝来直前の九州北部の思想傾向は?、など非常に疑問に思いました。
九州北部の寺社の縁起・由緒の史料分析を丹念に行えば、当時のキリスト教の急速な普及の背景がより明らかになるかもしれません。


日本人のキリスト教受容に影響を与えたかどうかとは関係なく、熊野の縁起物語自体は、非常に独特で興味深いと思いました。
首を切られてなお、山中でたった一人で赤子を育てた母親の姿は、想像するとすさまじいものです。
首なき母親の物語に、当時の人々は何を祈り、求めたのでしょうか? 死後も子供を守り続ける母性の象徴として、安産の祈願、子供の健康祈願など、たくさんの女性たちの願いが込められたのかな、と想像します。
熊野の縁起における、宮廷で一人だけ王の寵愛を受け、他の女御たちから嫉まれ、不幸な運命になるという物語は、『源氏物語』の桐壺更衣を思い起こされます。
女性同士の嫉妬や嫌がらせは、『源氏物語』をはじめ、インドが舞台の『熊野の本地』でも同じでおあり、時代や国を問わず普遍的なテーマであるため、熊野の縁起物語は当時の民衆に親しまれたのではないでしょうか。


わたしが、この首なき母親について、特に興味深く思うのは、<祟らない>ところです。
首なき母親は、物語中で完全な被害者であり、自分自身では加害者に復讐をしていません。
厳島の縁起では、息子が母親の復讐を果たしますが、母親自身は自分を殺した人々を怨む<祟り神>ではないのです。
「蘇り」についても、母親自身が成し遂げたのではなく、息子の努力によります。

「天神様」として祀られている菅原道真公は、苦しんで死んだ神であるのは間違いないですが、和辻が「苦しむ神」として取り上げていないのはなぜでしょうか。
早良親王や菅原道真、崇徳院、平将門など、苦しんで死んだ神々(元・人間)は、「祟り神」となったからこそ、人々は霊鎮めの祭りをして、畏怖し、信仰してきたのだと思います。
しかしイエス・キリストは、苦しんで死んだ神である点は同じですが、自分を殺した人々に呪いや疫病をふりまく「祟り神」ではないのです。

和辻が、菅原道真ではなく、この首なき母親神を取り上げたのは、この母親が<祟らない>点において、イエスとの共通性を感じとったからではないかと思います。
そのため和辻は、キリスト教受容の背景に、キリスト教と類似した信仰がすでに成立していたと論じるのに、熊野の縁起物語を取り上げたのだと思います。


また読書会では、キリスト教受容の背景には、熊野の縁起物語の影響よりも、貧困があったはずだ、という意見が多く出されました。
貧困状態であれば、キリスト教改宗につながるのでしょうか?
キリスト教は、五穀豊穣や商売繁盛といった現世利益をもたらす教えではないので、当時の人々が貧しさから脱出するために改宗したとは言い切れないのでは、と思います。
中世後期は、凶作や飢饉、疫病、内戦がたびたび発生し、人々にとって<死>が身近な極限の状況だったと考えると、<死後の救済>を求めて、キリスト教に改宗したのではないか、と考えられます。
キリスト教が急激に普及した同じ時期に、北陸・東海・畿内では、死後の安寧を約束する一向宗(浄土宗・浄土真宗)の勢力が強まったと言われています。

1591年~1600年頃に、天草・長崎などで刊行されたキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん』の序文では、「一切人間に後生を扶かる道の眞の掟」(天正19年(1591年)、加津佐版)と書かれています。
当時の宣教師たちが、キリスト教の教義について、「後生を扶かる」すなわち<死後の救済>を保証するものとして、教えを広めていたことが分かります。
『どちりな・きりしたん』は、イエスの十字架上の死と復活の意義についてよりも、<死後の救済>の側面を強調しすぎているように感じます。
このような宣教師たちの教えを聞いて、人々がキリスト教に改宗したのであれば、それほどまでに死後の魂の行方に不安を感じていたということだと思います。



「埋もれた日本」はどこにあるのか?


論文の表題である「埋もれた日本」とは、何を意味しているのでしょうか?
和辻の議論では、「キリシタン渡来」直前の「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」を指しています。

しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。(114頁)

中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分にヨーロッパのそれに伍することができたであろう。(128頁)

鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。(129頁)

和辻は、室町時代の文化を「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」が成立していたとして、肯定的に評価しています。
そして、江戸時代の文化における、キリスト教の排斥と儒学の採用を「保守的反動的な偏向」と批判し、「日本人の自由な思索活動」を妨げたとして、否定的に評価しています。
以上の『埋もれた日本』の構成から、和辻の考え・歴史観を整理して、見取図を作成しました。(下図参照)


このことから、和辻は<西洋>を到達目標と見なしており、室町時代や江戸時代の文化について、いかに<西洋>に近づいていたか、ということを評価基準にしていたことが分かります。
和辻の議論において、<西洋>は<近代>とほぼ同義語として使われています。
したがって和辻は、江戸時代の「保守的反動的」な文化によって、「埋もれていた日本」こそが本来のあるべき「日本」であり、<西洋>に劣らない<近代>であった、と考えていたと言えます。
明治期以降の極端な西洋崇拝の影響を受けた、<西洋>もしくは<近代>への到達度を歴史的評価の基準とする考えは、和辻だけでなく、現代の日本でも少なからず引き継がれているのではないでしょうか。
和辻は、シェークスピアやベーコンについて「近代的」と評価する一方で、林羅山の儒学を「シナの古代の理想」と貶めています。
このような西洋崇拝の歴史観は、<西洋>が人種差別や植民地支配を正当化してきた間違った論理と同じであり、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、ポリネシアなどの非西洋文化を差別することにつながる危険な考え方だと思うのです。

さらに、「埋もれた日本」と題して、熊野や厳島の縁起物語を紹介することで、「日本」を論じることができるのでしょうか?
京都や近畿地方など、京都近辺の思想・文化は、「日本」を構成する一つの部分ではあっても、「日本」全体を代表するとは言えないと思います。
古代では、北東北や南九州も「日本」ではなく、中世後期でもアイヌや琉球王国は「日本」に含まれません。
当時は、各地方の差異が現代とは比較にならないほど大きかったと考えると、一つの地方の思想・文化をもって「日本思想」「日本文化」とまとめることはできないと言えるでしょう。

中世後期の民衆の思想・文化を反映したものとして、熊野や厳島の縁起物語だけを取り上げることは議論が粗すぎると思いますが、首なき母親の物語の面白さ・独特さは間違いないです。
当時の「日本」を代表する思想・文化としてではなく、<思想の地域性>を考慮しながら、熊野や厳島周辺地域の思想・文化を明らかにする題材として、首なき母親の物語を取り上げれば、より興味深い議論になるのではないでしょうか。
当時の熊野・厳島周辺地域の信仰と、その他の地域との比較を行うことによって、熊野や厳島の縁起物語の特異点または類似点が明らかになり、<西洋>と似ている、と言った単純な評価ではない、新たな理解を得られるのではないかと思います。