2012/10/13

オルハン・パムク「雪」(1)

雪
  • 発売元: 藤原書店
  • 発売日: 2006/03/30

オルハン・パムク『雪』(和久井路子訳、藤原書店)を読みました。
2012年7月の読書会課題本でした。

オルハン・パムクは、1952年にトルコのイスタンブルに生まれました。
22歳で初めて書いた小説『ジェヴデット氏と息子』(1982年)が、トルコで最も権威のあるオルハン・ケマル小説賞を受賞しました。
その後に発表した『静かな家』(1983年)、『黒い書』(1990年)、『わたしの名は紅』(1998年)は、ともにフランスの文学賞を得ていて、トルコ国内だけでなく、ヨーロッパやアメリカで高い評価を受けました。
『雪』(2002年)は、「911」事件後のイスラーム世界を予見した作品として、世界的ベストセラーとなり、フランスできわめて権威のあるメディシス賞を受賞。
2006年に、トルコ人として初となるノーベル文学賞を受賞しました。


『雪』は、1990年代初めの、トルコ北東部の国境近い小さな町、カルスが舞台です。
主人公のKa(本名ケリム・アラクシュオウル)は、政治亡命者としてドイツに暮らしていましたが、12年ぶりに祖国トルコへ帰ってきました。
彼は、学生時代に憧れていたイペッキという美しい女性が、夫と離婚してカルスに住んでいることを知り、結婚を申し込むつもりで、カルスを訪れました。
そして表向きは、「共和国新聞」に依頼されたジャーナリストとして、カルスの市長選挙と、若い女性たちの連続自殺事件について取材します。


※ネタバレ注意※

市長選挙を目前にしたカルスでは、世俗主義とイスラム主義の緊張が高まっていました。
イスラム穏健派の政党は、貧しい人々を手厚く支援する戦略で支持を集めていて、市長選挙に勝つ見込みです。
イスラム穏健派の市長候補が、Kaの学生時代の友人で、イペッキの元夫でもある、クルド人のムフタル。

約1カ月前に、カルスで自殺したテスリメという女学生は、イスラム的スカーフを着用する「髪を覆う少女たち」の一人で、スカーフ禁止派の学校当局から、登校を阻止され、退学させられる寸前に、自殺したという噂でした。
「髪を覆う少女たち」と呼ばれるグループのリーダーが、イペッキの妹カディフェです。
カディフェは、カルスに潜伏しているイスラム過激派のカリスマ「紺青」の恋人でもあります。
宗教高校の学生であるネジプやファズルは、「紺青」を尊敬していて、「髪を覆う少女たち」に憧れていました。
Kaがカルスに到着した日、イスラム過激派の狂信者によって、「髪を覆う少女たち」を迫害したとの理由で、教員養成所の校長が暗殺されます。

校長暗殺事件が誘因となって、イスラム原理主義の脅威を恐れる世俗主義者の一部が、軍事クーデターを起こすのです。
クーデターを指揮していたのは、Kaと同じバスでカルスに到着した、スナイ・ザーイムという俳優と、スナイの友人であるオスマン・ヌーリ・チョラク大佐でした。
軍クーデター発生の直後から、警察や情報局によって、カルス中のイスラム主義者や宗教高校生、クルド人民族主義者が襲われて、暗殺されたり、逮捕・拷問されました。
教員養成所の校長を暗殺した犯人を見つけ出して、カルス市民にクーデターの成果を証明し、直ちに犯人を処刑することを目指していました。

一方で、「紺青」とKaの提案により、ドイツの新聞社に、クーデターを非難する共同声明を発表することになります。
「紺青」を中心に、イスラム過激派、社会主義者、無神論者のクルド人民族主義者、息子が行方不明の母親など、カルスで迫害されている人たちが集まり、侃侃諤諤の議論を交わすのです。
イペッキとカディフェの父トゥルグットは民主主義者として、カディフェはイスラム主義のフェミニストとして、この集会に参加しました。

秘密集会の後、「紺青」はついに逮捕されます。
スナイ・ザーイムは、カディフェに対して、国民劇場の舞台で、スカーフをとり、髪を出すことを要求しました。
カディフェは、恋人である「紺青」の釈放と引き換えに、髪を出すことを決心します。
Kaはイペッキに結婚を申し込み、イペッキもKaの愛情に応えたため、二人は一緒にドイツへ行く約束をしていました。
「紺青」が釈放された後、Kaは情報局員のデミルコルらに拉致され、暴行されます。
デミルコルは、「紺青」の潜伏先を隠しているKaに、イペッキがもともと「紺青」の愛人だったことを教えるのです。
Kaは混乱し、嫉妬に苦しみますが、イペッキはKaを慰め、「紺青」を忘れるために、Kaと共にドイツへ行くことを約束します。
しかしその後、ドイツ行きの旅支度を急ぐイペッキのもとに、「紺青」が襲撃で殺されたという知らせが届きます。
イペッキは、Kaが密告者であると確信し、ドイツ行きを取り止めました。
カディフェは、国民劇場での芝居中に、「紺青」の死を知らされますが、芝居を続行し、カルスの人々の前で、ついに髪を出すのです。
スナイ・ザーイムは、芝居中にカディフェに銃撃され、死亡しました。
スナイが芝居のために用意した銃には、実弾が装填されていたのでした。

カルスでのクーデターから4年後、ドイツで暮らしていたKaは、何者かによって暗殺されます。
Kaの友人である小説家オルハンが、ドイツを訪れ、Kaの遺品を引き取ります。
暗殺される直前、Kaはカルス滞在中に書いた詩をまとめて、出版を目前にしていました。
オルハンは、Kaの遺稿を探しますが、どうしても見つかりません。
Kaが創作した詩の手がかりを求めて、オルハンはカルスを訪れ、Kaの足跡を辿ります。
イペッキは、4年前と変わらず美しく、独身のままでした。
カディフェは、スナイ殺害の罪で刑に服し、服役を終えた現在は、ファズルと結婚し、子育てに励んでいます。
オルハンは、Kaが「紺青」を密告したかどうか、疑問を持っていましたが、宗教高校の学生寮を訪れた時、Kaが密告者であると確信します。
「紺青」を尊敬する若者たちは、ドイツに亡命して、イスラム過激派の新しいグループを組織していると、噂されていました。
彼らがKaの暗殺者であり、Kaの遺稿を奪い去ったことを示唆して、物語は終わります。

◆◆◆

最後まで筋書きが読めず、すごく面白かったです!
恋愛・ミステリ・政治・宗教と、いろいろな要素が詰まった作品です。
Kaの、イペッキに対する強い恋心と極端な臆病さ、「紺青」への嫉妬心に注目すれば、素晴らしい恋愛物語として読むことが出来ます。
どこにでもありそうな恋愛ではなく、トルコのカルスという場所性にこだわった、カルスでしか成立しない恋愛物語ですね。

物語のキャラクターが、政教分離主義、社会主義、軍人、宗教的イスラム、政治的イスラム、戦闘的イスラム、クルド人民族主義と、厳密に描き分けられているのは、カルスという場所を表現するために、必要不可欠なのでしょう。
キャラクターを通して、世俗主義者も、イスラム主義者も、イスラム原理主義者も、等しく発言の機会が与えられていて、偏りが無く、作者の絶妙なバランスを感じました。


作品の原題は、トルコ語で「雪」を意味する"Kar"です。
主人公の名前が、Ka。
Kaが訪れる都市は、Kars(カルス)。
主人公Kaと、Karsという土地と、雪の情景(Kar)に、強い結びつきを感じますね。


わたしは特に、物語の構成が面白いと思いました。
以下に、作品の構成を整理してみます。

<第1章~第4章> 主人公Kaがカルスに訪れた3日間の物語(Ka視点)
<第5章> 暗殺された校長と犯人の会話の録音記録。4年後にオルハンが取材し、遺族から渡された。
<第6章~第28章> Kaがカルスを訪れた3日間の物語(Ka視点)
<第29章> Kaのカルス訪問から4年後、Kaの死から42日後に、オルハンがドイツでKaの足跡を辿る物語
<第30章> Kaがカルスを訪れた3日間の物語(Ka視点)
<第31章> Kaがカルスを訪れた3日間。共同声明のための秘密集会。(Ka不在、ポリフォニー)
<第32章~第40章> Kaがカルスを訪れた3日間の物語(Ka視点)
<第41章> 4年後、オルハンがドイツでKaの足跡を辿り、トルコ帰国後にカルスを訪れる
<第42章> Kaがカルスを訪れた3日間(Ka不在、イペッキ視点)
<第43章> Kaがカルスを訪れた3日間(Ka不在、カディフェを中心に)
<第44章> 4年後、オルハンがカルスを訪れた物語。4年後の登場人物の状況。

→物語全体の語り手「わたし」=Kaの友人で小説家のオルハン

Kaが主人公の物語が、途中からKa不在の物語になり、イペッキやカディフェに軸足が移って、最後は語り手オルハンが、主人公代理となって、Kaの物語を進行するという構成が、斬新でした。
Kaの不在によって、Kaが「紺青」を密告したかどうかが謎になり、ミステリ性が際立ちますね。

Kaがカルスを訪れた3日間の物語と、それから4年後に、オルハンがKaの足跡を辿る物語が、交錯しているところも、面白かったです。
複数の視点と、複数の時系列を並べることで、Kaの物語がより立体的に感じられました。

◆◆◆

『雪』は、倒置法と主語の省略が多い文章で、なかなか読み難かったです。
気になったので、『雪』の冒頭部分を、原文・日本語訳・英訳で比較してみました。

Karın sessızlığı,diye düşünüyordu otobüste şoförün hemen arkasında oturan adam.

雪の静寂だと考えていた、バスの運転手のすぐ後ろに座っていたその男は。

The silence of snow, thought the man sitting just behind the bus driver.

karın  kar「雪」の属格=「雪の」
sessızlığı 沈黙
diye düşünüyordu  そう考えてた
otobüste şoförün バス運転手
hemen arkasında oturan  すぐ後ろに座って
adam 「男/人」の主格=「男は」

原文を見ると、倒置法はオルハン・パムクの文体的特徴だと分かります。
おそらく、トルコ語には動詞の人称語尾変化と、名詞の格変化があるので、主語を省略したり、語順を入れ替えても、変化語尾を見れば、トルコ語話者なら主語がすぐ分かるのでしょう。

誤訳が多くて読み難いという感想をよく見かけますが、誤訳ではなく、むしろ原文に忠実に訳した結果、こなれてない日本語になってしまったのでは、と思いました。

ちなみに、原文を見ると、「紺青」の名前は"Lacivert"(ラージベルト)でした。
この色は、ネイビーやウルトラマリンを指すようです。
『雪』の英語訳では、「紺青」は"Blue"という名前でしたよ。


★オルハン・パムク「雪」(2)


読了日:2012年7月10日